中宮として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:42 UTC 版)
彰子は、13歳という幼さで一条天皇の第一皇子・敦康親王の養母となる。一条天皇としては自らの最有力後継者候補でありながら母を失った第一皇子を、正室である中宮が養育するのは理想の形であった。一方で、定子と中関白家を政治的に追い詰めたとされる藤原道長であるが、飲水病に体を蝕まれていた彼は、自らのみならず兄弟姉妹のいる兼家流藤原氏を守るためにも、彰子に子が生まれるまで敦康親王を後見せざるを得なかった。彰子は親王を自らの局である藤壺に引き取って、日常的に養育することになる。この際、まだ幼い彰子に代わり、母の源倫子が積極的に育児に関わったとされる。 倫子は娘を精力的に補佐したとされるが、彰子も寛弘4年(1007年)に倫子が四十四歳で末妹・藤原嬉子を出産した際、第七夜の産養を主催している。彰子は母と末妹に織物衣と産着を贈った。道長はこのことについて、「未だ家から立たれた皇后が、母の為にこのようなことをなさったことはない。百年来、聞いたことがない」と喜びをもって『御堂関白記』に記している。だが、道長は妻倫子の出産を喜びつつも、実際のところは19歳になった彰子の懐妊・出産を待ち望んでいたと思われ、この年の夏、金峯山へ参詣している。 寛弘5年(1008年)、ついに彰子の懐妊が判明する。9月11日、三十時間以上に及ぶ難産の末、土御門殿にて一条天皇の第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産した。紫式部の手になる『紫式部日記』に詳細に綴られているのはこの懐妊・出産の様子である。道長は大いに喜んだ。きっちりとした後見の元に皇子が生まれたことに安堵したらしい一条天皇は彰子と若宮の内裏参入が11月17日と聞いたため、「あまりに先のことであるから(待ちきれないので)自分が訪れる」といい、10月16日に土御門殿へ行幸する。さらにはその翌年の寛弘6年(1009年)、再び彰子は懐妊する。11月25日、今度はすんなりと安産で第三皇子・敦良親王(後朱雀天皇)を生む。これにより、道長の威信は大きく強まった。 しかし、この出来事で窮地に立たされたのが第一皇子であった敦康親王であった。寛弘6年正月末、彰子と敦成親王への呪詛が発覚する。呪詛を行ったとして捕縛されたのは円能という法師で、関係者に高階明順、高階光子、源方理の名前が出た。彼らは全て藤原伊周の縁者であり、朝政に復帰していた伊周も大きな打撃を受ける。その伊周もその翌年、寛弘7年(1010年)正月に没した。敦康親王は後ろ盾を完全に失う。道長は敦成親王の未来の即位へ向け行動していく。 寛弘8年(1011年)5月、一条天皇が発病する。それを皮切りに、道長は一条天皇が譲位するよう圧力をかけていく。いまだ一条天皇は皇后所生の敦康親王を正嫡としていまだ後継者に望んでおり、その中宮である彰子も手元で育てていた敦康親王に同情的であった。しかし、藤原行成に説得されて一条天皇は敦康親王を立太子するのをあきらめ、敦成親王を立太子させることにする。そして6月13日、一条天皇は三条天皇に譲位する。 ところが、父によって夫や養い子がないがしろにされていくことに怒りをあらわにしたのが他ならぬ彰子であった。また、父道長は彰子に一条天皇譲位のことを一切相談していなかったことも、彼女の怒りを買った。しかし、彰子はまだ経験不足であり、この状況を打開できる政治力を持てなかった。 一条院は出家し、6月22日に宝算32歳で崩御。この際、そばで看病していた彰子に「露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事ぞ悲しき」と御製を残している。彰子は24歳の若さで夫を失った。彼女の嘆きは深かったようで、まだ幼い子供達を抱えた彼女は、「見るままに露ぞこぼるるおくれにし心も知らぬ撫子の花」と詠んだ。
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