宮の女房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)
天皇に仕える「上の女房」に対し、正妃である中宮に仕える女官を「宮の女房」と言い、中宮宣旨・中宮御匣殿・中宮内侍の三役がその最高幹部である。これら三役は形式上は朝廷から補任される正式な官職であるが、実態は中宮の実家の私的女房であり、立后前から中宮個人の側近だった部下のうち3名の腹心が特に抜擢されたものである。 中宮宣旨:二条藤子(1300以前 - 1351)近世まで歌壇を支配した二条派当主の二条為定の妹で、二条派の歌人。また、後醍醐天皇の側室でもあり、懐良親王(日本国王良懐)をもうけた。 中宮宣旨とは、「宮の女房」の顔であり、他部署との渉外役や、中宮の非常事態における代理の総指揮など高い職責を有した。和歌にも優れ、主君の代詠もこなすことが多い。三役の中で最も中宮への忠誠心が高い人物である場合がほとんどである。本来の「宮の女房」の筆頭だが、11世紀末時点では中宮御匣殿が序列第一位に進み、中宮宣旨は第二位に落ちたとも言われる。鎌倉時代後期での序列は不明。 禧子の三人の腹心のうちの筆頭(あるいは第二位)であるはずだが、三人で唯一、軍記物語『太平記』には登場しない。 中宮御匣殿:御匣殿(? - 1331以前)右大臣西園寺公顕の五女で、禧子の姪に当たる。また、後醍醐天皇第一皇子の尊良親王の妻で、男子1人をもうけた。 御匣殿は裁縫などを司る部署およびその別当(長官)のこと。特に中宮に置かれる中宮御匣殿は、実務面で「宮の女房」を統率する場合が多い。 『太平記』では、尊良との恋愛伝説が描かれる。 中宮内侍:阿野廉子(1301 - 1359)公卿阿野実廉の実妹で、有職故実学の大家である洞院公賢の養女。後醍醐天皇の側室でもあり、祥子内親王(最後の伊勢神宮斎宮)や後村上天皇ら5人の子をもうけた。官僚・政治家として高い手腕を持ち、最晩年、新待賢門院の女院号を得た正平6年/観応2年(1352年)以降の3年ほどは、「新待賢門院令旨」を発して南朝の国政に表から直接関わるほどだった。 中宮内侍は、「宮の女房」の序列第三位で、奏請・宣伝(命令の取次)や宮中の礼式の雑務などを統括する。 『太平記』では、後醍醐の寵愛を主君の禧子から奪ったり、佞言で政敵を排除しようとしたりするなど、傾国の悪女として描かれ、作中で最も存在感のある女性に描かれている。しかし、邪悪な人物とするのは事実ではなく、玄恵らによる『太平記』原本への改竄とする説もある(#『太平記』)。 上記の通り、幹部全員が後醍醐天皇もしくはその皇子と関係を持っている。通例、天皇は自分に直属する「上の女房」の幹部である典侍や掌侍を側室とする場合が多いのに、なぜ後醍醐が自分の部下ではなく、禧子の部下である「宮の女房」の幹部を側室にしたのかは不明である。ただ、実在が確実な皇子女の生年を見る限り、後醍醐は皇太子時代に禧子と出会ってから即位までは禧子一筋で側室を置かず、即位後も禧子崩御までは上記の藤子と廉子の2人以外に側室を持たなかったと見られる(後醍醐天皇#后妃・皇子女)。後醍醐は側室の選び方は奇異だが、側室の数で言えば当時の天皇としては少ない方のようである。なお、後醍醐は側室だからといって蔑ろにした訳ではなく、遅くとも元徳3年(1331年)の元弘の乱開始までには、藤子と廉子に従三位、つまり正規の后でいう女御(中宮の次位の后)に相当する手厚い地位を与えた。
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