禅律国家構想とは? わかりやすく解説

禅律国家構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「禅律国家構想」の解説

2018年日本史研究者保立道久唱えたによれば後醍醐天皇禅宗政策からは、後醍醐融和路線志向する政治家であることが見て取れ皇統分裂した両統迭立友好的に解消するための手段として、禅宗活用しようとした形跡見られるという。また、その禅宗政策は、歴史的意義としても、鎌倉時代建武政権室町幕府江戸幕府という連続性を見ることができ、公武超えた国家統合枠組みとして後醍醐具体的に禅宗提示したからこそその後明治維新まで500年上続武家禅宗国家体制成立したではないか、という。 もともと禅宗どちらかといえば後醍醐大覚寺統支持する新興宗教であったが、持明院統でも例外的に花園天皇禅宗深く帰依し、特に大徳寺宗峰妙超崇敬していた。後醍醐の側も花園姿勢好意持ち花園追って大徳寺宗峰妙超篤く敬い、両帝ともに大徳寺祈願所設定していた。その後後醍醐天皇鎌倉幕府を倒すと、京に帰還し建武の新政開始した翌々日元弘3年/正慶2年1333年6月7日という早期段階で、大徳寺に「大徳寺領事管領不可有相違者」との綸旨天皇命令文)を発した(『大日本古文書 大徳寺文書67中御門宣明奉)。この後もたびたび、大徳寺所領寄進などをすばやく受けており、その手篤さ真言律宗本拠地である西大寺後醍醐腹心文観弘真支持母体)と並ぶほどであったという。同年8月24日にはさらに後醍醐自筆置文で「大徳禅寺者、宜為本無双禅苑」「門弟相承不許他門住」(『大日本古文書 大徳寺文書』1)と日本最高の禅寺であることが明言され、10月1日には正式に綸旨で「五山之其一」(『大日本古文書 大徳寺文書14)とされた。翌年1月26日後醍醐南禅寺祖父亀山天皇開いた禅寺)を京都五山第一定めると、2日後28日改め大徳寺南禅寺と並ぶ寺格とし「南宗単伝の浄場なり」と称した(『大日本古文書 大徳寺文書15)。南宗云々とはつまり、大徳寺国家寺院であると宣言したことと解釈可能である。 さて、大徳寺への寺領安堵時期6月7日)を見てみると、これは実は、持明院統への王家領安堵時期同日である。したがって保立によれば、この二つ連動した政策であったではないかという。最も注目されるのは、かつて花園上皇大徳寺宗峰妙超寄進していた室町院領の「伴野床・葛西御厨」の安堵については、花園からの大徳寺への寄進後伏見上皇確認させる、という煩雑な手続き踏んで行ったことである(『鎌倉遺文』32242・『大日本古文書 大徳寺文書30)。この措置によって、大徳寺改め大覚寺統持明院統双方から崇敬を受けるという形式になったのである室町院領はもともと大覚寺統持明院統という天皇家内部紛争火種になっていた荘園群のため、これらが大徳寺という宗教的中立的な組織に付けられたことの意味大きい。つまり、後醍醐天皇持明院統との融和路線目指し公家一統象徴として大徳寺表に立てたのではないか、という。 しかも、後醍醐天皇は、「本朝無双禅苑」「五山之其一」といったただの華やかな名目大徳寺飾り立てるだけではなく実際造営寺地確保においても、他の仏教宗派との紛争起こらないように、細やかに腐心した痕跡見られる。たとえば、後醍醐建武の新政時に大徳寺与えた寺域は、天台宗円融院梶井門跡接している。ここで、当時梶井門跡管領していたのは、後醍醐皇子天台座主尊澄法親王(のちの征夷大将軍宗良親王)だった。尊澄(宗良)は元弘の乱以前自身関連がある善持寺という寺院土地が、開堂たばかり大徳寺流入してしまう件を快く了承したことがあるなど(『大日本古文書 大徳寺文書』1-168)、天台宗延暦寺最高の地位にある僧でありながら禅宗にも理解のある人物だった。このように首都京都新たに大きな禅宗寺院造営拡大するにあたって自身人脈によって、最も強い障害考えられる仏教界の旧勢力天台宗との軋轢起こさないように図っている。この後醍醐融和的姿勢は、建武政権期で一貫したのだった見られ建武元年1334年10月20日綸旨再度敷地確認行っている(『大日本古文書 大徳寺文書50)。 無論その後建武の乱建武政権崩壊してしまったため、結果論としては、後醍醐宥和計画である大徳寺通じた公家一統そのもの成功しなかった。とはいえ歴史的意義がなかったといえば、そうではなく、むしろ逆で、後醍醐禅宗政策その後日本の歴史決定的な影響与えた宋学新儒学)は、しばしば宋学の中の一つに過ぎない朱子学と同じものである誤解されることが多いが、それは事実ではなく、この時代宋学禅宗とは不可分一体のものだった鎌倉時代日本モンゴル帝国脅威晒されると、公武の各有識者は、それまでナショナリズム捨て日本近代化を図るべく、宋学禅宗一体になった思想を、南宋禅僧である無準師範門下や、南宋から日本渡来した蘭渓道隆通じて学んだ。この時点では、禅宗宋学諸勢力によってばらばらに学ばれるものに過ぎなかったが、後醍醐によって初め禅律国家というものが具体的に提示され国家統合象徴として用いられることで、その後隆盛保証されることになった保立によれば後醍醐肖像画が、律宗西大寺出身文観と、禅宗大徳寺によって所持されたことがその端的な象徴ではないか、という。 ただし、後醍醐だけが宋学傾倒していたわけではない。たとえば、元応3年1321年)に「讖緯説」を基に元享改元する協議為された際は、「讖緯説は『易緯度』や『詩緯』に依拠するのである」という宋学的な理由欧陽脩朱熹同じよう理由讖緯説否定している)で、大外記中原師雄を始め協議参加した全員が「緯説用ふべからざる事」を主張したまた、北畠親房讖緯説を「奇怪虚誕の事」と否定している。また、一条兼良の『尺素往来によれば儒学従来清原中原両家によって「前後漢、晋、唐朝博士」の旧注用いられていたが、「近代」には玄恵が「程朱二公(宋学大成者である程頤朱熹のこと)」の「新釈」を用いて朝廷で「議席」を開いたという。加えて、『花園院宸記元応3年1319年)閏7月22日によれば持明院殿行われた論語』の談義に、日野資朝菅原公時』らの学者官僚混じって玄恵らの宋学通じた僧侶参加し花園院は特に玄恵説くところを誠に道に達するか」と讃えている。 後醍醐政策は、建武政権崩壊後も、足利政権によって武家禅宗国家として発展的に受け継がれた、という説もある。足利尊氏直義兄弟によって後醍醐冥福のために天龍寺創建されたのはあまりにも有名であり、足利義満また、後醍醐によって才覚発掘され禅僧夢窓疎石名目開山とし、相国寺建立している。このように足利氏政権禅宗儒学国家理念位置づけ、しかも禅宗寺院宗教上だけではなく経済的社会的に大きな役割を果たすようになったのは、建武政権からの連続性否定できない、という。その後武家禅宗国家江戸幕府崩壊するまで500年上続くことになるが、「禅宗武家のもの」という認識江戸幕府禅宗深化させたのを過去遡及的当てはめた理解過ぎず実際は、公武超えた国家的事業に禅を据えた後醍醐こそが、武家禅宗国家成立切り開いた人物であると言えるではないか、という。 しかし、観念的な外来思想である宋学王朝政治のためのものであり、室町時代においてそれは京都朝廷での狭い世界でしか通用しないものであったため、尊氏自身はその思想興味はなく、「三島神社文書」に見えるように、鎌倉以来武家政治の中で培われた、個別具体的な主従制や、行政裁判通じて生活に密着した統治思想重きを置いていた。

※この「禅律国家構想」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
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