禅昌寺の由来に関する諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 06:11 UTC 版)
「禅昌寺 (下呂市)」の記事における「禅昌寺の由来に関する諸説」の解説
禅昌寺の創建年、創建地、圓通寺との関係、慶安年中(1648年 - 1652年)に中呂圓通寺を禅昌寺と改めるまでの経過については、諸説あって確定していない。創建年は「享禄元年(1528年)」説と「天文元年(1532年)」説とがあり、創建地は「桜洞」説と「中呂」説に分かれる。また、円通寺との関係では「一寺二称」説と「二寺並存・統合」説に、経過については「一貫存続」説と「一時廃絶」説に分かれる。これらは複雑にからんでいるが、大きく次の4説に整理できよう。 (1)圓通寺桜洞創建・禅昌寺桜洞創建中呂移転説 (『飛州志』1745年 長谷川忠崇) 往古(平安時代)、恵心僧都(942年 - 1017年)開闢の寺(山寺号不詳)があった。 大雄山圓通寺は、永和年中(1375年 - 1379年)に、桜洞に創建された。 その後、兵火の為に灰燼(かいじん)と成り、廃寺となった。 享禄元年(1528年)に、三木直頼が円通寺を桜洞に再建し、寺号を禅昌寺と改めた。 天文年中(1532年-1555年)に、中呂に移転した。 『飛州志』(1745年、長谷川忠崇)を整理するとこのようになるが、異なる解釈もある。 (2)圓通寺桜洞創建・禅昌寺中呂創建・一貫説 (『益田郡誌』1916年 益田郡役所) 往古(平安時代)、恵心僧都(942年 - 1017年)開闢の寺(山寺号不詳)が桜洞にあった。 永和3年(1377年)、勅命により再建し、改めて「大雄山圓通寺」と名づけた。 その後、兵火のために圓通寺は焼失した。 享禄元年(1528年)、中呂村に移し大雄山圓通寺を「龍澤山禅昌寺」と改めた。 以上、『龍澤山禅昌寺由緒(鈍渓本)』(天保年間1830年 - 1844年)、『龍澤山禅昌寺略縁起』(1909年)、『益田郡誌』(1916年 益田郡役所編)による。 (3)圓通寺中呂創建・禅昌寺中呂創建・一貫説 (『禅昌寺史』1999年 禅昌寺) 大雄山圓通寺は、永和3年(1377年)に、中呂に創建された。 その後荒廃した圓通寺は、享禄元年(1528年)に龍澤山禅昌寺と名を変えて再興された。 寺号を禅昌寺と改めた後も、「圓通寺」は通称として使用された。 江戸初期の慶安年中(1648年 - 1652年)に、寺号を禅昌寺に一本化し、現在に至る。 (4)圓通寺中呂創建・禅昌寺桜洞創建・二寺並存説 (『萩原町史』2002年 萩原町) 大雄山圓通寺は、永和3年(1377年)に、中呂に創建された。 龍澤山禅昌寺は、天文元年(1532年)に、桜洞に創建された。 1532年 - 1585年の53年間、中呂圓通寺と桜洞禅昌寺が並存していた。 天正13年(1585年)の桜洞城攻防戦で禅昌寺は崩壊し、一旦廃絶した。 江戸初期の慶安年中(1648年-52年)に、中呂圓通寺の寺号を禅昌寺と改め、現在に至る。 近年の研究成果を述べた『禅昌寺史』(1999年)と『萩原町史』(2002年)は、「圓通寺桜洞創建説は誤伝であり、圓通寺は初めから中呂にあった」という点で一致している。また「圓通寺は火災にあっていない」という点でも一致している。したがって、現在では、前述の4説のうち、第1説と第2説は誤伝とされ、第3説と第4説が検討の対象となっている。第4説(禅昌寺桜洞創建・一時廃絶説)を採る『萩原町史』は、「桜洞城外至近の距離にあった禅昌寺は、天正13年(1585年)の桜洞城攻防戦で崩壊し、一旦廃絶した」と主張する。 これに対し第3説(禅昌寺中呂創建・一貫存続説)を採る『禅昌寺史』は、「禅昌寺は中呂の圓通寺が寺号を改称したものであり、移転したことも一時廃絶したこともない」と主張する。 なお、「益田歴史フォーラム2008」において、第3説を発展させた次の最新説が発表された。 (5)寺号交互使用説 (『禅昌寺は桜洞にあったか』2009年 吾郷武日) 大雄山圓通寺は、永和3年(1377年)に、中呂に創建された。 その後荒廃した圓通寺は、享禄元年(1528年)に、三木直頼によって再興された。 天文元年(1532年)に、大雄山圓通寺の山号寺号を龍澤山禅昌寺に改めた。 天正13年(1585年)に三木氏が敗北すると、圓通寺の寺号を復活させて使用した。 江戸初期の慶安年中(1648年 - 1652年)に、禅昌寺の寺号を復活させ、現在に至る。
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