天つ乙女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
元弘三年立后屏風に五節(ごせち)をよませたもうける袖かへす 天つ乙女も 思ひ出(いで)よ 吉野の宮の むかし語(がたり)を(大意:袖をひるがえして舞う五節舞の天女に等しいあなたも、どうか思い出して欲しい。吉野の宮の昔語りを。時の帝である天武天皇が、吉野に舞い降りたあなたの優雅さに呆然として、「天つ乙女が 天女らしく舞うことよ 唐玉を 袂に巻いて 天女らしく舞うことよ」と高らかに歌った、あの日のことを) —後醍醐院御製、『新拾遺和歌集』冬・622(『新葉和歌集』冬・501にほぼ同一歌) 皇太后禧子が崩御した同年の元弘3年12月7日(1334年1月13日)、新たな正妃として、対立皇統である持明院統の後伏見天皇第一皇女の珣子内親王が立てられた。これは、持明院統と西園寺家(珣子の従兄は西園寺家当主公宗)との融和路線を築くための政略結婚と見られ、しかも20歳以上の年齢差がある結婚だった。だが、後醍醐は珣子のために心を尽くし、立后屏風、つまり皇后が定まった時に有力歌人が歌を色紙に書いて屏風に貼る行事では、新郎であり二条派の大歌人でもある後醍醐自身も歌を詠んだ。そのうちの2首の両方ともが、北朝の勅撰和歌集と南朝の准勅撰和歌集の双方に同時入集するほどの秀歌だった(もう1首は珣子内親王#後醍醐から珣子への歌を参照)。 上記の歌は、『新葉和歌集』の版である「袖かへす 天津乙女も 思ひ出ずや 吉野の宮の 昔語りを」が刻まれた歌碑が、2012年時点で、奈良県吉野郡吉野町の吉野朝皇居跡に立てられている。
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