御産の歴史的影響
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建武2年(1335年)3月中旬、珣子の出産は無事に終わった。正確な出産日について、「御産御祈目録」および『門葉記』には3月14日(西暦4月8日)とあり、一方で『御遊抄』には3月18日(西暦4月12日)とある。『大日本史料』編纂者は18日説を支持しているが、三浦龍昭は14日説を支持している。 『御遊抄』によれば、18日の出産日から数え7日目の24日に、音楽家の綾小路敦有によって「七夜拍子」の儀が行われ、敦有の技の見事さに感銘を受けた後醍醐は、翌25日、賞賛の綸旨(私的文書)を贈ったという。同書によれば、この後も、中御門家や綾小路家らによって五十日(5月12日)と御百日(9月9日)のお祝いの拍子が行われたという。 しかし、珣子と後醍醐の間に生まれたのは、皇女だった。お産の3か月後の6月22日、珣子の従兄の西園寺公宗は後醍醐への暗殺を計画したとして捕らえられた。公宗は、かつて鎌倉幕府との交渉役である関東申次として強大な権勢を誇っていたが、幕府無き今、その権勢は衰退していくばかりだった。西園寺家には家督争いなどもあり、暗殺計画の原因は必ずしもはっきりしないものの、権勢の衰退による不満が原因だった可能性はしばしば指摘される。だが、もし従妹である珣子に皇子が誕生していたとすれば、いずれは西園寺家の血を引く天皇が即位するのだから、公宗がはたして暗殺計画など企てたかどうか、疑問である。 公宗の後醍醐暗殺未遂事件とほぼ同時期に、関東では北条得宗家の遺児である北条時行が中先代の乱を起こした。足利尊氏の弟の足利直義は時行に敗北し、これを助けるために尊氏が東国へ走った。ここから紆余曲折あって後醍醐と尊氏の戦い建武の乱が発生し、そして尊氏に敗北した建武政権は崩壊した。公宗事件は、建武政権崩壊の幕開けだったのである。 呉座勇一によれば、20世紀まで存在した、建武政権の制度・政策には欠陥があったとする古説は、建武政権が戦いに敗北して崩壊したことから、「すぐに崩壊したからには、稀に見る悪政だったに違いない」と、結果から逆算したものに過ぎないという。実際には、建武政権の政策そのものは中世の常識に沿ったものであり、その崩壊は必然ではなかったという。 三浦によれば、このようにして見ると、珣子のお産の結果は、はからずも建武政権の崩壊に少なくない影響を及ぼしたのではないか、という。
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