御産の歴史的影響とは? わかりやすく解説

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御産の歴史的影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 14:56 UTC 版)

珣子内親王」の記事における「御産の歴史的影響」の解説

建武2年1335年3月中旬、珣子の出産無事に終わった正確な出産日について、「御産御祈目録」および『門葉記』には3月14日西暦4月8日)とあり、一方で御遊抄』には3月18日西暦4月12日)とある。『大日本史料編纂者18日説を支持しているが、三浦龍昭は14日説を支持している。 『御遊抄』によれば18日出産日から数え7日目24日に、音楽家綾小路敦有によって「七夜拍子」の儀が行われ、敦有の技の見事さ感銘受けた後醍醐は、翌25日賞賛綸旨私的文書)を贈ったという。同書によればこの後も、中御門家綾小路家らによって五十日5月12日)と御百日(9月9日)のお祝い拍子が行われたという。 しかし、珣子と後醍醐の間に生まれたのは、皇女だった。お産の3か月後の6月22日、珣子の従兄西園寺公宗後醍醐への暗殺計画したとして捕らえられた。公宗は、かつて鎌倉幕府との交渉役である関東申次として強大な権勢誇っていたが、幕府無き今、その権勢衰退していくばかりだった。西園寺家には家督争いなどもあり、暗殺計画原因は必ずしもはっきりしないものの、権勢衰退による不満が原因だった可能性はしばし指摘される。だが、もし従妹である珣子に皇子誕生していたとすればいずれは西園寺家血を引く天皇即位するのだから、公宗がはたして暗殺計画など企てたかどうか疑問である。 公宗の後醍醐暗殺未遂事件とほぼ同時期に関東では北条得宗家の遺児である北条時行中先代の乱起こした足利尊氏の弟の足利直義は時行に敗北し、これを助けるために尊氏東国走ったここから紆余曲折あって後醍醐尊氏戦い建武の乱発生し、そして尊氏敗北した建武政権崩壊した。公宗事件は、建武政権崩壊幕開けだったのである呉座勇一によれば20世紀まで存在した建武政権制度政策には欠陥があったとする古説は、建武政権戦い敗北して崩壊したことから、「すぐに崩壊したからには稀に見る悪政だったに違いない」と、結果から逆算したものに過ぎないという。実際には、建武政権政策そのもの中世常識沿ったものであり、その崩壊必然ではなかったという。 三浦によればこのようにして見ると、珣子のお産結果は、はからずも建武政権崩壊少なくない影響及ぼしたではないか、という。

※この「御産の歴史的影響」の解説は、「珣子内親王」の解説の一部です。
「御産の歴史的影響」を含む「珣子内親王」の記事については、「珣子内親王」の概要を参照ください。

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