20世紀まで
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フリヴニャは11世紀にキエフ大公国で通貨として使われていた(グリヴナ)。これは、ルーシ全体の通貨であったとされる。 フリヴニャはスラヴ語のgrivaから派生している。現在ではフリヴニャは馬のたてがみという意味であるが、もとは印欧祖語で「首」を意味する語が語源と考えられている。例えばサンスクリット「ग्रीवा(griva)」はこの意味である。そこからフリヴニャは、’’首’’の周りに着用される金や銀で作られた装飾品を指し示すようになり、転じて一定の重さの金塊か銀塊を示すことになった。 当時は他にもノガタ、クナ、ベクシャの3つの補助単位が使われていた。ノガタ (nogata) は熊や狼のような大きな動物の毛皮を意味し、クナ (kuna) はテンなどの小動物の毛皮を意味している。最も小さなベクシャ (veksha) はリスの毛皮を意味している。 キエフ大公国の菱形フリヴニャ。 ヴォロディーメル1世大公の銀貨。 スヴャトポルク1世の銀貨。 ロシア帝国時代は、ウクライナではカルボーヴァネツィと呼ばれたルーブルが通貨単位として用いられた。ウクライナにおけるルーブリは、それまでのフリヴニャに新たに名称を与えるという形で現れた。のち、ズロトニクなど帝国共通の単位が用いられるようになった。
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20世紀まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 09:58 UTC 版)
11世紀頃にイタリアの修道士がジュニパーベリーを主体としたスピリッツを作っていた記録があるのが発祥とされる説が現在は有力。 1660年、オランダのライデン大学医学部教授、フランシスクス・シルヴィウスが作った解熱・利尿用薬用酒、イェネーバ(蘭: jenever、英語読み: ジェネヴァ)がその起源。普通に飲んでも美味なため、一般化していった。 1689年、オランダの貴族であったオレンジ公ウイリアム(ウィリアム3世)がイングランド国王として迎えられた際に、この酒もイギリスに持ち込まれ、人気を博するようになった。その際、名前も短くジンと呼ばれるようになった。 19世紀半ばに連続式蒸留器が発明されると、これまでより飛躍的に雑味が少なく、度数の高いスピリッツが蒸留できるようになり、ジンの製法も大きく様変わりした。原料自体は大きく変わらないが、まず連続式蒸留器でアルコール度数の高いスピリッツを作り、そこにジュニパーベリーなどの副材料を加えて単式蒸留する。これが現在主流であるドライ・ジン(Dry Gin,「ロンドン・ジン」とも呼ばれる)である。 18世紀、産業革命に前後してロンドンなどの大都市に労働者が流入しスラム街が形成された。そして、低所得者の間にジン中毒ともいえる現象が起こっていた。ウィリアム・ホガースの銅版画『ビール通りとジン横丁(英語版)』はこのようなイメージから生まれたものであり、健康的な「ビール通り」と対比した堕落し、悪徳にまみれた街を「ジン横丁」として描いている。19世紀に入るとジンとそれにまつわる社会悪に関する関心が高まり、1830年代のアンチ・スピリット運動へと発展していった。ジンは価格が安いわりにアルコール度数が高く、酔いが早かった。このため、労働者や庶民の酒、ひいては「不道徳な酒」というイメージがあり、貴族や富裕な紳士、健全な者の飲む酒ではないとされた。当時、花婿の出費会計書に「ジン」の名が入っていたことを知った花嫁の親が婚約を解消したという逸話があるほどである。19世紀後半を舞台としたシャーロック・ホームズシリーズにおいても、ホームズ(地主階級の出身で大学を出ている知識人。探偵であり警察官とも対等に接する)とワトソン(医者)といった社会的地位を持つ登場人物がジンを口にするシーンはない。対照的に、「唇のねじれた男」において、アヘン窟へ向かうワトソンがジンを提供する酒場の間の道を通っていくシーンがある事からも、当時のロンドンにおけるジンの扱い・イメージがうかがい知れる。 一方で、現在まで続くジンの銘柄タンカレーの創業者であるチャールズ・タンカレーが1830年、高級なジン造りを志してロンドンに蒸留所を起こした。これ以降、品質やイメージは徐々に向上していった。 20世紀にはカクテルベースとして上流階級の間でも一般的になり、名門貴族の出であるウィンストン・チャーチルなどは、ほとんどストレートのジンに近い特注のエクストラ・ドライ・マティーニを愛飲していたという。 日本で初めてジンが蒸留されたのは、フランス革命戦争で本国を失い補給を絶たれた長崎出島のオランダ人のために、長崎奉行所の茂伝之進が文化9年(1812年)にオランダ人の協力を得てジンやブランデー、ビールを作ったのが始まりと言われている。当時カピタンだったヘンドリック・ドゥーフの『日本回想録』にはその時の経緯と、ネズの匂いが強すぎてあまりいい出来ではなかったという感想が記されている。
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20世紀まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 15:34 UTC 版)
1850年代にビクトリア植民地で金鉱が発見されると、瞬く間にゴールドラッシュが発生。海外から多くの労働者、特に中国人労働者は1950年代だけでも3万人を越える数が押し寄せた。当時、人口が200万人に達していなかったオーストラリア大陸で中国系住民が増加することは、イギリス出身者による政府運営を目指す人々には問題視される出来事であり、各地の植民地政府は上陸税を課すなどして中国人労働者の上陸を阻止するなど軋轢が生じた。後に編集された『オーストラリア連邦年鑑』によれば、それでも1881年のオーストラリア全土の中国系住民の人口は約38500人を数えている。しかし、1901年にオーストラリアが独立して白人の価値観を中心とした白豪主義政策が実施されると、中国人労働者の数は減少していった。
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