韶子内親王とは? わかりやすく解説

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韶子内親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/30 03:42 UTC 版)

韶子内親王
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 延喜18年(918年
薨去 天元3年1月18日980年2月7日
位階 三品
父母 父:醍醐天皇、母:源和子
兄弟 勧子内親王、宣子内親王恭子内親王克明親王保明親王慶子内親王代明親王勤子内親王婉子内親王、都子内親王、重明親王常明親王、修子内親王、敏子内親王式明親王雅子内親王有明親王、普子内親王、時明親王、長明親王、源高明兼明親王源兼子靖子内親王、源厳子、源自明韶子内親王源允明康子内親王英子内親王斉子内親王朱雀天皇章明親王村上天皇源為明盛明親王
源清蔭、橘惟風
斎院 延喜21年2月25日921年4月11日) - 延長8年9月22日930年10月16日)頃
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韶子内親王(しょうし/あきこないしんのう)は、醍醐天皇の第13皇女賀茂斎院。母は承香殿女御源和子光孝天皇皇女)。朱雀天皇村上天皇らの異母姉で、同母兄弟に常明親王式明親王有明親王慶子内親王斉子内親王がいた。

経歴

延喜20年12月17日(921年2月2日)、異母妹の康子内親王とともに内親王宣下を受ける。翌21年(同じく921年)2月25日、父醍醐天皇の斎院に卜定延長2年(924年)3月25日、裳着を行い三品に叙された。同8年(930年)9月29日に父天皇が崩御したことにより斎院を退下。のち大納言源清蔭陽成天皇皇子)と結婚し、さらに河内守橘惟風(橘広相の孫・公廉の子)と再婚した。ただし、清蔭や惟風との年齢差が大きすぎる[注釈 1]ことや臣籍降下したとは言え宇多・醍醐両天皇とは微妙な関係にあった陽成天皇の第一子である源清蔭の婚姻には政略性があったと考えられることから、宇多天皇の内親王の婚姻が後世に韶子の婚姻と誤伝されて後世の系譜に記されたのではないかとする安田政彦の説がある[1]

天元3年(980年)1月18日、63歳で没した。

脚注

注釈

  1. ^ 清蔭は韶子よりも34歳も年上で醍醐天皇が崩御した時点で47歳になっている。惟風の生年は不明であるが、韶子が6歳である延喜23年には既に従五位下備後守に任じられており、安田政彦はこの時点で既に30歳前後になっていたと推測する。

出典

  1. ^ 安田政彦「醍醐内親王の降嫁と醍醐源氏賜姓」『平安時代の親王と政治秩序-処遇と婚姻-』吉川弘文館(2024年)、P91-104.(原論文『続日本紀研究』第374号、2008年6月)

参考文献




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