功子内親王とは? わかりやすく解説

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功子内親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 22:04 UTC 版)

功子内親王
続柄 高倉天皇第一皇女

全名 功子(こうし/ことこ/いさこ)
身位 内親王
出生 安元2年3月30日1176年5月10日
死去 不明
香川県坂出市王越町乃生
埋葬 没地に同じ。「平家と共に屋島から九州に落ち延びる途中、坂出沖の瀬居島に寄った時、土地の漁師が衰弱しているのを見兼ね、乃生浦に女子供ともどもにかくまった。」との記載有(坂出市史)墓は周りを掘に囲まれた墳墓で、御墓(みはか)と呼ばれている。墓石は2基ある。確たる物証は無いが墓石は直径1m程の丸型。
父親 高倉天皇
母親 帥局
役職 伊勢斎宮
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功子内親王(こうし(ことこ/いさこ)ないしんのう、安元2年3月30日1176年5月10日) - 薨年不詳)は、平安時代後期の皇族高倉天皇第1皇女。母は帥局藤原公重)。高倉天皇朝の伊勢斎宮

略歴

彼女の母は右近衛少将藤原公重の娘で、帥局[1]と号した。高倉天皇が幼少の際、その「御乳人」を務め、乳母の妊娠について三条公房顕広王はそれぞれの日記で「是神令然欤」「頗以所奇欤」と評している[2]

治承1年(1177年)10月28日[3]、彼女は内親王となり、同日に伊勢斎宮に卜定された。同年11月9日、朝廷は伊勢太神宮へ奉幣使を派遣し、斎宮卜定の由を奉告した。

治承2年(1178年)1月1日、歯固の儀があったが、戴餅の儀は行われなかった[4]。同年一本御書所へ初斎院入り。同年9月13日、東河で禊[5]を行った後、野宮に入った[6]

治承3年1月11日、母の死去により群行せず野宮を退出した[7]

前年(1178年)に外祖父公重が逝去した際、彼女は軽服を着用したものの野宮退出はせず、中山忠親はこの一連の事態を「神慮尤可恐事也」と評している。

治承5年(1181年)1月17日、摂津国から京都へ帰還した[8]後、消息は不明である。

参考文献

脚注

  1. ^ 『玉葉』では輔局とも称される。
  2. ^ 『愚昧記』治承元年10月28日条、『顕広王記』安元3年10月28日条。
  3. ^ 『玉葉』は27日と記載するが、『愚昧記』と『顕広王記』はいずれも28日と記すため、ここでは28日を採る。
  4. ^ 『山槐記』同日条。記載によれば、これは斎宮の慣例であり、上西門院統子内親王の例も同様であった。
  5. ^ 東河は賀茂川の古称。禊は賀茂川の水で罪穢れを清める儀式。
  6. ^ 『顕広王記』同日条。
  7. ^ 『山槐記』同日条。同書治承2年5月13日条には「白専女」——すなわち斎宮に棲む白狐が射殺され、犯人藤原仲季が佐渡へ流罪となった事件も記される。
  8. ^ 『明月記』同日条。



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