功子内親王
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功子内親王 | |
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続柄 | 高倉天皇第一皇女 |
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全名 | 功子(こうし/ことこ/いさこ) |
身位 | 内親王 |
出生 | 安元2年3月30日(1176年5月10日) |
死去 | 不明 香川県坂出市王越町乃生 |
埋葬 | 没地に同じ。「平家と共に屋島から九州に落ち延びる途中、坂出沖の瀬居島に寄った時、土地の漁師が衰弱しているのを見兼ね、乃生浦に女子供ともどもにかくまった。」との記載有(坂出市史)墓は周りを掘に囲まれた墳墓で、御墓(みはか)と呼ばれている。墓石は2基ある。確たる物証は無いが墓石は直径1m程の丸型。 |
父親 | 高倉天皇 |
母親 | 帥局 |
役職 | 伊勢斎宮 |
功子内親王(こうし(ことこ/いさこ)ないしんのう、安元2年3月30日(1176年5月10日) - 薨年不詳)は、平安時代後期の皇族。高倉天皇第1皇女。母は帥局(藤原公重の女)。高倉天皇朝の伊勢斎宮。
略歴
彼女の母は右近衛少将藤原公重の娘で、帥局[1]と号した。高倉天皇が幼少の際、その「御乳人」を務め、乳母の妊娠について三条公房と顕広王はそれぞれの日記で「是神令然欤」「頗以所奇欤」と評している[2]。
治承1年(1177年)10月28日[3]、彼女は内親王となり、同日に伊勢斎宮に卜定された。同年11月9日、朝廷は伊勢太神宮へ奉幣使を派遣し、斎宮卜定の由を奉告した。
治承2年(1178年)1月1日、歯固の儀があったが、戴餅の儀は行われなかった[4]。同年一本御書所へ初斎院入り。同年9月13日、東河で禊[5]を行った後、野宮に入った[6]。
治承3年1月11日、母の死去により群行せず野宮を退出した[7]。
前年(1178年)に外祖父公重が逝去した際、彼女は軽服を着用したものの野宮退出はせず、中山忠親はこの一連の事態を「神慮尤可恐事也」と評している。
治承5年(1181年)1月17日、摂津国から京都へ帰還した[8]後、消息は不明である。
参考文献
- 山中智恵子『続斎宮志』砂子屋書房、1992年。 ISBN 4-7904-9221-4
- 芳賀登ほか監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年。
- 角田文衛監修『平安時代史事典』角川書店、1994年。
脚注
- 功子内親王のページへのリンク