円方女王とは? わかりやすく解説

円方女王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/20 13:43 UTC 版)

円方女王
時代 奈良時代
生誕 不詳
薨去 宝亀5年12月22日775年1月27日
位階 正三位
父母 父:長屋王
兄弟 膳夫王桑田王葛木王、鉤取王、安宿王黄文王山背王智努女王円方女王賀茂女王
斎宮 元明天皇治世期(慶雲4年(707年)- 和銅8年(715年))
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円方女王(まどかたじょおう/まどかた の おおきみ)は、長屋王の王女。母は不詳で藤原長娥子とも智努女王とも言われる。天武天皇の曾孫。伊勢斎宮

生涯

元明天皇の治世に伊勢斎宮に参入したとされている[1]

神亀6年(729年)の長屋王の変で父長屋王が自殺したとき、円方女王には罪が及ばなかった。天平9年(737年)10月、長屋王の遺児の叙位があった際には従五位下から従四位上に昇叙。天平宝字7年(763年)1月、従四位上から正四位上に昇叙。天平宝字8年(764年)10月、藤原仲麻呂の乱の論功で従三位に昇叙。この年、法隆寺白銅鏡一面を献納[2][3][4]神護景雲2年(768年)1月、正三位に昇叙。宝亀5年12月(774年1月)に薨去。

万葉集』に(天平勝宝8歳頃の歌と想定される)1首の歌を残す。

  • 夕霧に千鳥の鳴きし佐保道(さほぢ)をば荒しやしてむ見るよしをなみ(20-4477)[5]

また、平城宮木簡に「円方女王、図書□王」とも見える[6]

官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

  1. ^ 一代要記』元明天皇項によると、田方(田形)内親王多貴(多紀)内親王が各一度参入(伊勢参詣)し、次に智努女王、次に円方女王が各一度参入したとある。
  2. ^ 『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に「円方王」として名前が見える。
  3. ^ 『寧楽遺文』上巻350頁
  4. ^ 『大日本古文書』巻2 - 591頁
  5. ^ この歌には「智努女王の卒(みまか)りにし後、円方女王の悲傷(かなし)びて作る歌一首」という詞書があり、智努女王(円方女王の母とも姉とも言われる)と親密な関係にあったと考えられている。
  6. ^ 平城宮出土木簡概報四 - 17

参考文献

  • 平野邦雄・瀬野精一郎編『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館、2006年。
  • 金子幸子ほか編『日本女性史大辞典』吉川弘文館、2007年。
  • 坂本太郎平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』588頁、吉川弘文館、1990年
  • 竹内理三山田英雄・平野邦雄編『日本古代人名辞典』6 - 1633頁、吉川弘文館、1963年
  • 芳賀登一番ヶ瀬康子中嶌邦祖田浩一編『日本女性人名辞典』973頁、日本図書センター、1993年
  • 『続日本紀2 (新日本古典文学大系13)』岩波書店、1990年
  • 『続日本紀3 (新日本古典文学大系14)』岩波書店、1992年
  • 『続日本紀4 (新日本古典文学大系15)』岩波書店、1995年
  • 宇治谷孟訳『続日本紀(上)』、講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟訳『続日本紀(中)』、講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟訳『続日本紀(下)』、講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
  • 『萬葉集(六)(完訳日本の古典7)』、小学館、1987年

関連項目





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