徳大寺公清とは? わかりやすく解説

徳大寺公清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 09:12 UTC 版)

 
徳大寺公清
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正和元年(1312年
死没 延文5年/正平15年6月8日1360年7月21日
別名 後野宮内大臣
官位 従一位内大臣
主君 伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇
氏族 徳大寺家
父母 父:徳大寺実孝、母:家女房
兄弟 公清、性弘、洞院実世
洞院公賢の娘
実時久我具通
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徳大寺 公清(とくだいじ きんきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿権中納言徳大寺実孝の子。官位従一位内大臣後野宮と号す。

経歴

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『園太暦』の内容に従って記述する。

評定衆の公卿として

南北朝の争乱が始まり混乱が続いていた時期、父実孝が夭折したために若くして徳大寺家の当主となった。『師守記』貞和5年(1349年)5月1日には、前内大臣であった公清が権大納言兼春宮大夫の洞院実夏や中納言中御門宣明と共に評定衆に加えられている[4]

系譜

脚注

  1. ^ 『公卿補任』には元侍従、とある。
  2. ^ 母が疱瘡の所労危急のため、大饗などが行われず勅使も遣わされなかった。
  3. ^ 水腫所労による。
  4. ^ 師守記』貞和5年(1349年)5月1日の条による。

参考文献

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 嘉暦2年(1327年)に公清が参議となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「徳大寺公清」および「徳大寺実孝」の項。
  • 園太暦』 続群書類従完成会 岩橋小弥太・斎木一馬・黒川高明・厚谷和雄校訂
  • 師守記』 国立国会図書館蔵




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