仏教学での反論とは? わかりやすく解説

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仏教学での反論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)

西園寺禧子」の記事における「仏教学での反論」の解説

河内祥輔とは独立に、2010年に、仏教学知識から『太平記』説および日本史研究者百瀬今朝雄の説へ反論行ったのが仏教美術研究者内田啓一である。 百瀬は、『金沢文庫文書所収金沢貞顕(元・鎌倉幕府執権)の書状元徳元年1329年10月頃)(→御産祈祷)に、後醍醐天皇聖天供という儀式行っていると報告されていることを、『太平記』説の補強として用いた百瀬は、『金剛寺文書所収享禄5年(1532年)の願文を引き、「大聖歓喜天浴油供一七ヶ日 右、悪人悪行速疾退散し、障難をなすもの微塵摧破し、寺院安穏仏法隆盛せんがため」云々とあるのを根拠に、聖天供というのは幕府調伏(呪って破壊する)ための儀式であると推測した。 しかし、仏教美術専門とする内田によれば聖天供仏教的にはあくまで息災法修法であるという。「怨敵退散云々というのは、仏教息災法ではほぼ常套句であり、そこに戦闘的な意味を見出すことは難しい。もちろん、聖天供偽って後醍醐別の儀式をした可能性考えられないでもないが、少なくとも聖天供というのが正しいと仮定する限りにおいては、とても幕府調伏儀式であるとは思いにくいという。 同じく12月頃の貞顕書状では、後醍醐実際に自ら護摩(火を使う仏教儀式)をしていることを確認し祈祷について「言語道断」であるとある。百瀬はこれを、後醍醐幕府調伏修法行っていたことについて、貞顕が激怒したであろう解釈した。しかし、内田原文には護摩息災法なのか調伏法なのかは書かれていないことを指摘し、これが本当に調伏儀式でそれが貞顕に露見したのだったのだとしたら、元弘の乱1331年 - 1333年)を鎌倉幕府仕掛けるまで1年以上かかっており、あまりに気長すぎるのではないか、と疑問示したそもそも元弘の乱直接契機になったのは、後醍醐側近吉田定房による密告であって、特にこの貞顕の書状とは関係がないことも、後醍醐祈祷幕府調伏隠れ蓑だったとする説への疑問になる。 また、百瀬論文は、「冥道供」や「七仏薬師法」といった密教修法幕府調伏用いられたと主張している。しかし、内田によれば、これらは密教密教でも台密天台宗密教)の修法であり、後醍醐腹心密教僧は真言宗文観弘真なので、それらの儀式用いられたとは考えにくいという。

※この「仏教学での反論」の解説は、「西園寺禧子」の解説の一部です。
「仏教学での反論」を含む「西園寺禧子」の記事については、「西園寺禧子」の概要を参照ください。

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