仏教学での反論
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河内祥輔とは独立に、2010年に、仏教学的知識から『太平記』説および日本史研究者の百瀬今朝雄の説へ反論を行ったのが仏教美術研究者の内田啓一である。 百瀬は、『金沢文庫文書』所収の金沢貞顕(元・鎌倉幕府執権)の書状(元徳元年(1329年)10月頃)(→御産祈祷)に、後醍醐天皇が聖天供という儀式を行っていると報告されていることを、『太平記』説の補強として用いた。百瀬は、『金剛寺文書』所収の享禄5年(1532年)の願文を引き、「大聖歓喜天浴油供一七ヶ日 右、悪人悪行速疾退散し、障難をなすもの微塵に摧破し、寺院安穏、仏法隆盛せんがため」云々とあるのを根拠に、聖天供というのは幕府を調伏(呪って破壊する)ための儀式であると推測した。 しかし、仏教美術を専門とする内田によれば、聖天供は仏教的にはあくまで息災法の修法であるという。「怨敵退散」云々というのは、仏教の息災法ではほぼ常套句であり、そこに戦闘的な意味を見出すことは難しい。もちろん、聖天供と偽って後醍醐が別の儀式をした可能性も考えられないでもないが、少なくとも聖天供というのが正しいと仮定する限りにおいては、とても幕府調伏の儀式であるとは思いにくいという。 同じく12月頃の貞顕書状では、後醍醐が実際に自ら護摩(火を使う仏教儀式)をしていることを確認し、祈祷について「言語道断」であるとある。百瀬はこれを、後醍醐が幕府調伏の修法を行っていたことについて、貞顕が激怒したのであろうと解釈した。しかし、内田は原文には護摩が息災法なのか調伏法なのかは書かれていないことを指摘し、これが本当に調伏の儀式でそれが貞顕に露見したのだったのだとしたら、元弘の乱(1331年 - 1333年)を鎌倉幕府が仕掛けるまで1年以上もかかっており、あまりに気長すぎるのではないか、と疑問を示した。そもそも元弘の乱の直接契機になったのは、後醍醐の側近の吉田定房による密告であって、特にこの貞顕の書状とは関係がないことも、後醍醐の祈祷が幕府調伏の隠れ蓑だったとする説への疑問になる。 また、百瀬論文は、「冥道供」や「七仏薬師法」といった密教修法が幕府調伏に用いられたと主張している。しかし、内田によれば、これらは密教は密教でも台密(天台宗の密教)の修法であり、後醍醐の腹心の密教僧は真言宗の文観房弘真なので、それらの儀式が用いられたとは考えにくいという。
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