仏教史学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:03 UTC 版)
特に、神道と仏教の関係性においては、浄土真宗と神道との間において政治的権力の拡大を巡る論争が多発したため、その部分のみを記述する。その他の仏教宗派については、新仏教系の教団との間に論争や事件が多発した。元々、神仏習合の概念が強かった、旧仏教系はその論争には組していない。同じく在郷系の神道集団である熊野系の「教派神道」も、この論争には与していない。これは、それぞれの地域における祭事を巡って、「その地域集団の信徒の多数をいずれかが占めている」という単純な考え方ではなく、その地域の慣習や習慣との間において両派が共存していた事に他ならない。 仏教史学上においては、江戸時代に「念仏の唱和」で「仏になれる」という信仰が大勢を占める事によって、巨大な信仰集団となった浄土真宗からの問題提起によって始まる。特に、日本的な戒律によって、古代にあっては男子250戒、女子384戒とも言われた仏教が、浄土教によって10戒にまで削減された事が在家信徒集団を多く有する事になったと推定されている。 1872年12月に島地黙来によって書かれた「三条教則批判建白書」は、日本近代における政教分離を飾る最初の一ページであるが、教部省に建白した。本建白は政教分離、三条教則批判など五段に分かれている。黙来にはこの建白から1875年大教院分離許可の指令がおりるまで、膨大な建白・提言がある。 この運動の背景には、真宗本願寺派の大洲鉄然・赤松連城、真宗大谷派の石川舜台、在俗者の大内青巒らの協力があった。黙来の宗教自由論とは言っても、キリスト教に対する、根深い「排邪」意識があった。 仏教の政教分離運動は、大教院分離運動を中心に、1877年1月教部省廃止、1885年7月教導職廃止、1889年の帝国憲法の制定によって、はじめて法文上の信教の原則が保証される事になった。しかし、大教院分離運動を除いて、仏教が自前で勝ち取った宗教の自由とはいえない。 更に、『浄土真宗』が関連論文等で取り上げられる事が多いが、これは宗義に外れた異端思想を「異安心(いあんじん)」と呼んだ事による。 それ以外の要因としては、浄土真宗の僧侶島地黙雷らの建白、宗教団体法制定を巡る議論の中で、浄土真宗十派の意見として 正神には参拝し邪神には参拝せず 国民道徳的意義に於て崇敬し、宗教的意義においては崇敬する能はず 神社に向かって吉凶禍福の祈念せず 此の意義を深める神札護札を拝受する能はず が提示されたことによるとしている。 本願寺派で「異安心」とされたのは、龍谷大学の野々村直太朗であるが、1923年に「浄土教批判」を著し、その中に「往生思想は宗教に非ず」という論説を著している。本願寺教団は、野々村の僧籍を剥奪し、野々村の解職を要求した。龍谷大学教授会は解職を否定したが、結局前書発刊の同年12月10日依頼退職となった。野々村の主張は浄土教の神話性を否定し、信仰を主体的に考察するところにあった。 大谷派で異安心とされたのは、金子大栄・曽我量深でありともに清沢満之の流れを組んでいる。 現代仏教史においては、第二次世界大戦中においては、政府政策との妥協のため「神社非宗教論」を採用していた時期もあるとされている。これは、明治初年に生じた「神仏分離」とは反対の現象で、元々日本人の信仰のありようであった「神仏習合」に戻ったためともされている。
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