龍谷大学教授
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1914年講師を経て1919年教授となる。真宗学・中国仏教史・日本仏教史などを担当。妻子を迎えた京都市内の住まいでは、時折学生たちを呼んで「歎異抄」や「末燈鈔」の信仰座談会を開いた。1920年「親鸞聖人研究」を創刊。親鸞の史伝・思想・教学などについての論文は、真隆の真宗学者としての地位を確固たるものとし、宗門の内外で高い評価を受けた。1928年に文学部兼専門部教授へ昇進し、真宗概論や『愚禿鈔』の購読と講義などを担当した。 雑誌や真渓涙骨社主「中外日報」紙の原稿を書き、その編集も手伝った。また同紙第三面右上欄に「ペン光るかな」と題して無署名で執筆。その短文は、柴田晩葉・山口八九子・角田素江の挿絵とともに多数の愛読者を得て10年余続いた。真隆と親交の深かった九条武子もその1人といわれる。 1923年越後から東関東へ聖地巡礼した際、9月1日に関東大震災に遭ったが一命を取りとめた。1925年、最後の御堂焼失から44年を経て、自坊専長寺御堂再建を果たす。
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