浄土教批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 22:59 UTC 版)
「在家仏教 (河口慧海)」の記事における「浄土教批判」の解説
浄土教に対する批判は、24章から29章にかけてと43章を中心に行われている。 その要旨は、 「阿弥陀仏」(Amitā Buddha)は「(十方世界の)無量の仏」のことであり、「無量寿仏」(Amitāyus Buddha)や「無量光仏」(Amitābha Buddha)とは別概念であることは、サンスクリット語を知っている者にとっては自明なことであって、本来これらを混同することはあり得ない。 「南無阿弥陀仏」の六字名号は、(南無で始まれば阿耶(アーヤ)で結ぶという)サンスクリット語の文法規則を無視した、体を成していない語句・表現であり、「無量寿仏に礼拝す」という意味にしたいのであれば「南無 阿弥陀庾枳 仏陀耶」(namo'mitāyus Buddhāya)といった形になってないとおかしい。 称名念仏による極楽往生を保証するはずの「第十八の本願文」は、康僧鎧訳の無量寿経のみに見られる改変捏造された無根拠な記述である。 十念の念は本来は念仏のことではなくて、「願う心(チッタ)を生じること」であり、「心(チッタ)」を「念」と訳した康僧鎧と菩提流支の不適切な翻訳から善導が誤解したものである。 康僧鎧などによる無量寿経は、「五悪段」など道教思想を混入させた挿入改造が甚だしく、半翻訳半偽造と言うべきもの。 (親鸞を個人崇拝する真宗信者に対しては)歎異抄に親鸞自身が釈迦・善導・法然の伝灯を前提としていることが記述されており、既述の通りその伝灯自体が誤りである以上、真宗はただの誤謬妄想でしかない。 三身における「報身」として阿弥陀仏を尊ぶ意見もあるが、(まず上述したように「阿弥陀仏」なる一仏は存在しないので「無量寿仏」の意味として答えるならば)わざわざ西方極楽世界の仏を報身として借りる必要性がどこにも無い。それはあたかも日本国民が英国皇帝を主権者として戴くことと同じような無法である。 の7点である。
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