仏教公伝と当時の国際環境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 17:57 UTC 版)
「仏教公伝」の記事における「仏教公伝と当時の国際環境」の解説
4世紀後半以降、高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争を繰り返していた。6世紀前半即位した百済の聖明王(聖王)は、中国南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、当初新羅と結んで高句麗に対抗していたが、次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに大和朝廷に対して援軍を要求していた。百済が大和朝廷に仏教を伝えたのも、大陸の先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった[要出典]。
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