仏教保護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 01:45 UTC 版)
先代の法興王のすすめた仏教公認をさらに推し進め、皇龍寺・祇園寺[要曖昧さ回避]・実際寺・永興寺などの寺を建立した。中でも皇龍寺には574年に丈六仏を鋳造して収め、同寺は新羅仏教の中心となった。仏教に関わる事物・学僧を国外から盛んに導入し、549年には梁から僧覚徳と仏舎利を、551年には高句麗から僧恵亮を、565年には陳から僧明観と仏典1700巻を得た。576年には中国に求法留学していた安弘法師が胡僧の毗摩羅を伴って帰国した。真興王は恵亮を僧統(僧侶の最高職位)に任命し、新羅で初めての百座講会と八関会とを催させた。 在位37年にして576年8月に死去し、法興王と同じように哀公寺の北峯(慶州市孝峴里)に葬られて真興王と諡された。仏教の興隆に努め、王自身も晩年には出家して法名を「法雲」としていた。王の死後、妃の思道夫人もまた尼となり、永興寺に住んだという。
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