仏教の興隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:29 UTC 版)
奈良時代の日本仏教は、鎮護国家の思想とあいまって国家の保護下に置かれていよいよ発展し、国を守るための法会や祈祷がさかんにおこなわれた。政府は平城京内に大寺院をたて、聖武天皇は、741年(天平13)に全国に詔して、国分僧寺や尼寺を全国に建てさせ、また良弁を開山の師として東大寺の造営をおこない、743年(天平15)には、廬舎那仏金銅像(大仏)の造立を発願し、国家の安泰を願った。大仏の造立は、紫香楽宮で始まった。752年(天平勝宝4)には、出家し、退位した聖武太上天皇・光明皇太后・聖武の娘である孝謙天皇らが、東大寺に行幸し、大仏の開眼供養を行った。さらに孝謙天皇が重祚した称徳天皇は西大寺を建立した。 僧侶は南都七大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺)などの寺において仏教の教理を研究。南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)という学派が形成された。大規模な写経もおこなわれており、特に光明皇后発願の一切経の写経事業は、大仏造立や国分寺造営とならぶ大事業であった。 仏教の発展は、遣唐使にしたがって留学した道慈(三論宗)や玄昉(法相宗)ら学問僧たちの努力によるところが大きいが、754年(天平勝宝6年)1月に6度目の航海のすえに平城京に到着して、戒律や多数の経典を伝えた唐出身の鑑真和上、大仏開眼供養の導師となったインド出身の菩提僊那、菩提僊那と同時に来日したチャンパ王国(林邑)出身の僧仏哲、唐僧道璿、また、多くの新羅僧ら外国出身の僧侶の活動に負うところも大きかった。 朝廷は国教として仏教を保護するいっぽう、「僧尼令」などの法令によってきびしく統制し、僧侶になる手続きや資格をさだめて仏教の民間布教に制限を加えた。行基のように禁令にそむいて民間への布教をおこない、弾圧されたものの灌漑設備や布施屋の設置、道路建設などの社会事業に尽力すると、民衆の支持を集める僧侶もあった。行基は結局、その人気に注目した政府によって登用され、大仏建立に尽力したことで大僧正の僧位を得た。 他に社会事業をおこなった人物としては、行基の師で宇治橋をつくったといわれる道昭(法相宗の開祖)、貧窮した民衆を救済するための悲田院・施薬院を設けた光明皇后、多数の孤児を養育した和気広虫などがいる。
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