大仏造立
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2013年(平成25年)、寺は総代会で大仏造立事業の建設委員会を発足させた。大仏を含む寺院建築としての設計と施工は、翠雲堂(本社所在地:東京都台東区元浅草)が行った。仏像本体は、鋳造と運搬の容易な組み立て方式で造られることになり、まずは、縮尺10分の1の塑像(粘土模型)が2015年(平成27年)に完成した。その後、塑像を基に石膏で実寸大の原型を仕上げると、この原型をパーツごとに分解して鎔笵(鋳型)とし、山形鋳物で有名な山形市内の鋳造業者に発注した。そうして成形された鋳物の各パーツは宝光寺に搬入され、2017年(平成29年)秋から組み立てが始まった。像が完成するまでの一連の作業には1000年前の技術が用いられ、約100名の職人がたずさわった。 大仏の完成は2018年(平成30年)3月頃とされていたが、予定よりも早く2月9日に完成した。鹿野山(鹿野大仏)特別事前公開は同年4月11日であった。鹿野山(鹿野大仏)全貌公開は、2018年(平成30年)10月10日を予定していたが、許可申請の関係で公開準備に遅延が生じた。 銅合金で造られた大仏は、天日と雨風に曝されるうちにやがては緑青を発し、青緑色となる。仏像と台座(蓮華座と八角台座からなる)を合わせた総高は約18メートル。総工費は仏像と蓮華座だけで約4億円。
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大仏造立
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東大寺の中心である大仏造立は天平17年に始まったが、これは国分寺建立とは別である。この2つの大事業が東大寺として合併したのは、最初から意図されたことではない。大仏造立は当初紫香楽宮で計画されたが、その背景として数々の理由が挙げられる。まず、天平9年(737年)に九州から畿内にかけて天然痘が蔓延(天平の疫病大流行)し、老若男女貴賤を問わず、多くの者が倒れた。病死者の中には、光明皇后の後ろ盾として政権を担っていた藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂の、いわゆる藤原四兄弟も含まれていた。兄たちを次々と失った光明皇后は、その不安から聖武天皇へ大仏建立を強く勧めたとされる。また、天平12年に聖武天皇が河内国大県郡の智識寺を訪ね、その寺の盧舎那仏から大いに影響を受けたという。この智識寺は、名が表すとおり智識(同信集団)の勧進銭によって建立された寺で、それは東大寺成立の過程にも反映された。 大仏造立発願の詔は、この2年半後の天平15年(743年)10月15日、紫香楽宮から発せられた。当初の計画では、離宮であった紫香楽宮近くで、一時期近江国国分寺にも当てられた甲賀寺に大仏が造営されることになっていた。この計画では、民衆の多大な支持を集め、一時期には政権から危険視されていた僧・行基を起用、重用することで民衆の理解を求めた。現在、紫香楽宮の遺跡は発掘調査が行われており、その結果、現在の信楽町大字黄瀬の宮町遺跡として知られる場所に宮があり、史跡にも指定されている紫香楽宮址こそが甲賀寺の跡であろうと確定的に見られている。ところが、紫香楽宮での大仏造立計画は何故か中止となり、天平17年(745年)、聖武天皇は恭仁京からの遷都を発表(とはいえ、この当時は、大半の行政が紫香楽宮で行政が行われていた)、都を平城京へ復することとなった。これには、頻発した地震や反対勢力の抵抗などの原因が指摘されているが、わざわざ建設半ばの大仏までも捨ててしまうほどの肝心の主因はよく分かっていない。飯沼賢治は大仏建立に関して聖武天皇と光明皇后の間に仏教観の相違を含めた対立が存在したとする見方を取る。飯沼は聖武の意向は行基教団や知識集団を巻き込んで紫香楽に建立する構想であったが、光明の意向は国家事業として自らが建立に関わった福寿寺の後身で国分寺の中心であり、いずれは所謂「国家仏教」の中核として機能する筈である奈良の東大寺に建立する構想を持っており、そのモデルは亡き父・藤原不比等および唐の則天武后の仏教政策であったと推測する(行基に対する朝廷の弾圧が激しかったのは不比等の政権下である)。聖武天皇と光明皇后の仏教観の対立は政治的対立の要素を帯び、最終的に皇后側が勝利して天皇の意図した紫香楽の大仏計画は中止されて、改めて皇后が意図する東大寺での大仏計画が開始され、政権は皇后を支えた藤原仲麻呂が主導権を得ることになったとする。 そして、大仏は、平城京東方に当たる東大寺に造られることとなった。以上が、全く別のものであった大仏造立と大養徳国金光明寺建立の計画が合併したあらましである。長門国長登銅山の銅、陸奥国を国司として治めていた百済王敬福から贈られた鍍金用の金を材料にして、金光明寺造物所は大仏を鋳造をした。大仏の開眼供養会は、天平勝宝4年(752年)4月9日に催された。このとき開眼の筆をとって導師をつとめたのが菩提僊那であり、この筆は正倉院に保存され、後に大破した大仏が復興された際の開眼供養にも使用されることになる。この筆には、五色の縷がつけられ、大仏殿の外までにもひかれた。民衆達は大仏に結縁しようと、我さきにこの糸に群がった。貴賤老若男女問わず信仰を集めた東大寺のありさまが伝わるエピソードである。その一年前に、金堂(大仏殿)が落慶したことを『東大寺要録』は伝えるが、他の堂宇の整備計画が進む中で、その様な短期間に大仏殿が完成できるか、その工事が大規模なものであったことが予想できるだけに、疑問の残るところである。果たして、計画からわずか7年での大仏開眼供養会の際、いかほどに造営計画はすすんでいたのか、その進捗の経過には、様々に推測がなされている。 平安時代末期に焼失することになる初代の大仏の様子は、平安時代の絵巻物『信貴山縁起』(絵巻、朝護孫子寺蔵)の絵からうかがい知ることができる。この絵から、垂木や角木の木口にも金箔で荘厳された大仏殿の様子を見ることができる。信貴山に住んでいた僧命連には尼僧の姉があって、これが信濃国から弟に会うために大和へやって来た。が、弟の詳しい所在が知れない。尼僧は戒を受けたところである東大寺の大仏殿に籠った。すると、大仏からお告げがあり、西南の紫雲たなびく山に命蓮がいる、と伝えた。果たして姉は、弟に無事会うことができ、以降ふたりはともに暮らしたのだった、という物語である。この尼僧の大仏殿に参籠する場面に、初代の大仏殿が描かれているのである。
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