大仏造立とは? わかりやすく解説

大仏造立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/23 13:19 UTC 版)

鹿野大仏」の記事における「大仏造立」の解説

2013年平成25年)、寺は総代会で大仏造立事業建設委員会発足させた。大仏を含む寺院建築としての設計と施工は、翠雲堂本社所在地東京都台東区元浅草が行った。仏像本体は、鋳造運搬の容易組み立て方式で造られることになり、まずは、縮尺10分の1塑像粘土模型)が2015年平成27年)に完成したその後塑像を基に石膏実寸大の原型仕上げると、この原型パーツごとに分解して鎔笵鋳型)とし、山形鋳物有名な山形市内の鋳造業者発注した。そうして成形され鋳物各パーツ宝光寺搬入され2017年平成29年)秋から組み立て始まった。像が完成するまでの一連の作業には1000年前技術用いられ、約100名の職人たずさわった大仏完成2018年平成30年3月頃とされていたが、予定よりも早く2月9日完成した鹿野山鹿野大仏)特別事公開同年4月11日であった鹿野山鹿野大仏全貌公開は、2018年平成30年10月10日予定していたが、許可申請の関係で公開準備遅延生じた銅合金造られ大仏は、天日雨風曝されるうちにやがては緑青発し青緑色となる。仏像台座蓮華座八角台座からなる)を合わせた総高は約18メートル総工費仏像蓮華座だけで約4億円。

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大仏造立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:24 UTC 版)

東大寺の歴史」の記事における「大仏造立」の解説

東大寺中心である大仏造立は天平17年始まったが、これは国分寺建立とは別である。この2つの大事業東大寺として合併したのは、最初から意図されたことではない。大仏造立は当初紫香楽宮計画されたが、その背景として数々理由挙げられる。まず、天平9年737年)に九州から畿内にかけて天然痘蔓延天平の疫病大流行)し、老若男女貴賤問わず多くの者が倒れた病死者中には光明皇后後ろ盾として政権担っていた藤原武智麻呂藤原房前藤原宇合藤原麻呂の、いわゆる藤原四兄弟含まれていた。兄たち次々と失った光明皇后は、その不安から聖武天皇大仏建立強く勧めたとされるまた、天平12年聖武天皇河内国大県郡智識寺訪ね、その寺の盧舎那仏から大い影響受けたという。この智識寺は、名が表すとおり智識(同信集団)の勧進銭によって建立された寺で、それは東大寺成立の過程にも反映された。 大仏造立発願の詔は、この2年半後の天平15年743年10月15日紫香楽宮から発せられた。当初の計画では、離宮であった紫香楽宮近くで、一時期近江国国分寺にも当てられ甲賀寺大仏造営されることになっていた。この計画では、民衆多大な支持集め一時期には政権から危険視されていた僧・行基起用重用することで民衆理解求めた。現在、紫香楽宮遺跡発掘調査が行われており、その結果現在の信楽町大字黄瀬宮町遺跡として知られる場所に宮があり、史跡にも指定されている紫香楽宮址こそが甲賀寺の跡であろう確定的に見られている。ところが、紫香楽宮での大仏造立計画何故か中止となり、天平17年745年)、聖武天皇恭仁京からの遷都発表とはいえ、この当時は、大半行政紫香楽宮行政が行われていた)、都を平城京復することとなった。これには、頻発した地震反対勢力抵抗などの原因指摘されているが、わざわざ建設半ば大仏までも捨ててしまうほどの肝心主因はよく分かっていない。飯沼賢治は大仏建立に関して聖武天皇光明皇后の間に仏教観の相違含めた対立存在したとする見方を取る。飯沼聖武意向行基教団知識集団巻き込んで紫香楽建立する構想であったが、光明意向国家事業として自らが建立に関わった福寿寺後身国分寺中心であり、いずれは所謂国家仏教」の中核として機能する筈である奈良東大寺建立する構想持っており、そのモデル亡き父・藤原不比等および唐の則天武后仏教政策であった推測する行基対す朝廷弾圧激しかったのは不比等政権下である)。聖武天皇光明皇后仏教観の対立政治的対立要素帯び最終的に皇后側が勝利して天皇意図した紫香楽大仏計画中止されて、改め皇后意図する東大寺での大仏計画開始され政権皇后支えた藤原仲麻呂主導権を得ることになったとする。 そして、大仏は、平城京東方に当たる東大寺造られることとなった。以上が、全く別のものであった大仏造立と大養徳金光明寺建立計画合併したあらましである。長門国長登銅山陸奥国国司として治めていた百済王敬福から贈られ鍍金用の金を材料にして、金光明寺造物所は大仏鋳造をした。大仏開眼供養会は、天平勝宝4年752年4月9日催された。このとき開眼の筆をとって導師つとめたのが菩提僊那であり、この筆は正倉院保存され、後に大破した大仏復興された際の開眼供養にも使用されることになる。この筆には、五色の縷がつけられ大仏殿の外までにもひかれた。民衆達は大仏結縁しようと、我さきにこの糸に群がった貴賤老若男女問わず信仰集めた東大寺ありさまが伝わるエピソードである。その一年前に、金堂大仏殿)が落慶したことを『東大寺要録』は伝えるが、他の堂宇整備計画が進む中で、その様短期間大仏殿完成できるか、その工事大規模なものであったことが予想できるだけに、疑問の残るところである。果たして、計画からわずか7年での大仏開眼供養会の際、いかほど造営計画すすんでいたのか、その進捗経過には、様々に推測なされている。 平安時代末期焼失することになる初代大仏様子は、平安時代絵巻物信貴山縁起』(絵巻朝護孫子寺)の絵からうかがい知ることができる。この絵から、垂木角木木口にも金箔荘厳された大仏殿様子を見ることができる。信貴山住んでいた僧命連には尼僧の姉があって、これが信濃国から弟に会うために大和へやって来た。が、弟の詳しい所在知れない尼僧は戒を受けたところである東大寺の大仏殿に籠った。すると、大仏からお告げがあり、西南紫雲たなびく山に命がいる、と伝えた果たして姉は、弟に無事会うことができ、以降ふたりはともに暮らしたのだった、という物語である。この尼僧大仏殿参籠する場面に、初代大仏殿描かれているのである

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