紫香楽新京から平城京へ帰還するまで
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「彷徨五年」の記事における「紫香楽新京から平城京へ帰還するまで」の解説
紫香楽宮に滞在し続けていた聖武は大仏造立工事を促進するために種々の政策を実行する。難波宮に残っていた橘諸兄も紫香楽に移動し、首都機能が紫香楽に集中し始める。それにあわせて天平16年の後半から離宮時代の「紫香楽宮」に替わって「甲賀宮」という表記が使われるようになる。金銅の大仏を造るにはまず塑像を作成し、それを元に鋳型を作成して銅を鋳込む工程を取るが、天平16年11月13日に塑像の心木となる体骨柱を建てる儀式が甲賀寺で盛大に開催された。難波宮に残っていた元正太上天皇も11月17日に紫香楽に到着する。聖武は翌天平17年(745年)1月元日、朝賀の儀に替えて「紫香楽を新京とする」と宣し、門前に大楯と大鉾を立てた。1月21日には大仏造立に功績のあった行基が僧の最高位の大僧正となった。しかし狭い山中での新京建設や大仏造立の工事は国民を疲弊させ、遷都の度に転居を繰り返した官人たちの間に政治に対する不満が高まった。4月1日から甲賀宮の周辺で次々に山火事が発生したが、不満を持つ人々による放火が原因であったとされている。当時は原因不明の火災は神仏の祟りと考えられていたので、4月27日に天皇の徳を示すべく大赦と租税免除を決定したが、その当日に美濃付近を震源とする大地震が起こって、紫香楽でも大きく揺れた。5月に入っても余震が続いたが、当時天災も天皇の不徳・悪政にたいする天の咎めの表れと考えられていたので、紫香楽の新京建設が悪政であるという見方が一挙に強まった。動揺した聖武は5月2日に太政官の官人に「どこを都とすべきか」と問うたところ全員が「平城を都とすべし」と答えた。5月4日に平城京の四大寺の僧に同じ調査を行ったところ「平城京を都とすべし」という意思が示された。5月5日聖武は甲賀宮を離れ、恭仁宮を経由して11日には平城京のかつての内裏に戻り、官人たちも旧庁舎に帰った。
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