紫香楽宮の造営と大仏建立の詔とは? わかりやすく解説

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紫香楽宮の造営と大仏建立の詔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:44 UTC 版)

彷徨五年」の記事における「紫香楽宮の造営と大仏建立の詔」の解説

続日本紀によれば恭仁宮の建設始まって1年経過した天平14年742年2月5日に、恭仁宮から近江国甲賀郡に向かう東北道開かれた甲賀への道は途中険しい山道もあって容易な工事ではないので、恭仁宮遷都した後まもなくに着手したものと思われる同年8月11日聖武は「朕、近江国甲賀郡紫香楽行幸せむ」と詔し、紫香楽離宮建設工事担当する「造離宮司」を任命し8月27日多く官人引き連れて紫香楽行幸1週間滞在した。更に年末押し詰まった12月29日にも行幸したが、この時は同行した太政官トップ橘諸兄元旦に間に合うように恭仁宮帰京させ、聖武自身1月2日帰京、本来元旦に行うべき朝賀の儀は3日行われた天平15年4月3日三度目紫香楽行幸を行うが、この時は政権主班の橘諸兄恭仁宮残し五位上の貴族28人と六位以下の官人2370人を随行させ13日滞在した聖武官人たちに造営進んでいる紫香楽宮お披露目したと考えられる1回目3回目行幸に際して留守官恭仁宮平城両方任命しており、平城依然として首都機能一部担っていたと考えられる7月26日始まった紫香楽への四度目の行幸11月2日まで続いたが、この間10月15日紫香楽宮において廬舎那仏大仏発願の詔が出された。廬舎那仏当時全国設置中の国分寺のうち首都建設する国分寺本尊として造立される。16日には東海道東山道北陸道25か国の調と庸を紫香楽に運ぶ指示出され19日には行基弟子たち率いて大仏造立参加した

※この「紫香楽宮の造営と大仏建立の詔」の解説は、「彷徨五年」の解説の一部です。
「紫香楽宮の造営と大仏建立の詔」を含む「彷徨五年」の記事については、「彷徨五年」の概要を参照ください。

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