恭仁宮の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:44 UTC 版)
年末に恭仁宮に入った聖武はこの地に留まって越年し、造営工事は急ピッチで進められた。翌天平13年の元日の朝賀の儀は恭仁宮で行われた。既に天皇の住まいである内裏の一部は出来上がっており、当日内裏で宴が行われた記録がある。しかし宮城を囲む大垣はなく帳をめぐらせただけの状態であった。正月11日には聖武は伊勢神宮や七道の諸社に使者を派遣し新京への遷都を報告させた。平城京から恭仁宮への首都機能の移転は順次進められ、閏3月9日には平城宮にあった兵器を恭仁宮近傍の甕原宮に運ばせ、同15日には「5位以上の者は勝手に平城に住んではならず、現在平城にいる者は今日中に恭仁に還れ」との通達が出された。7月には元正太上天皇用の新宮ができ、元正太上天皇は10日に恭仁宮に移り、8月28日には平城京の東西の市の移設が完了した。10月16日には左京の中心を流れる木津川に架かる橋が完成したが、この橋を架けたのは行基が指導する優婆塞の集団であったとされている。行基はこの頃から聖武の方針に従って活動しており、後の大仏建立にも大きく寄与することになる。なお恭仁宮の大極殿は平城京に在ったものを解体して移築したものであるが、天平14年(742年)正月の朝賀には間に合わなかったが、翌15年正月には完成していた。恭仁宮建設の最中の天平13年2月14日に仏教を全国の人民に広める事を目的とした国分寺・国分尼寺建立の詔が出された。
※この「恭仁宮の建設」の解説は、「彷徨五年」の解説の一部です。
「恭仁宮の建設」を含む「彷徨五年」の記事については、「彷徨五年」の概要を参照ください。
- 恭仁宮の建設のページへのリンク