恭一の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 05:11 UTC 版)
恭一の霞ヶ浦での様子は「柏にあった陸軍飛行場」(上山和雄・編著)に詳しい。 「312航空隊=秋水隊」の中核は、全員が大学、高等専門学校の理科系および師範科卒で構成された実験部隊であり、「軍隊というよりは学校のサークルのよう」といわれるほど、アカデミックなものだった。霞ヶ浦航空隊の宿舎である夜、消灯時間を過ぎても士官控え室からはレコードの音楽が流れていた。それは何と「敵性音楽=ジャズ」。しかし、宿舎に響いた副司令の大声は「士官室、消灯時間を過ぎておるぞ!」決して「流れている曲」を責めるものではなかった。「これが、陸軍や別の部隊ならば・・・」と、隊員の誰もが思ったと言う。航空隊の一人の証言によれば、「ジャズのレコードをかけたのは鬼頭だった」という。厳しい訓練に明け暮れる毎日の、ほんの安らぎのひととき、恭一も間違いなくジャズを聴いていたのだ 。 7月29日、タッチアンドゴーの訓練直後の13時10分、恭一らの機体の直前をヘリコプターが通過、これを避けようとし機体は掩体壕に激突、恭一は23年の短い人生を終えた。終戦まであと17日であった。航空隊から直ちに恭一の名古屋の実家に宛て、殉職の電報が送られた。しかし中心街・錦にあった実家は空襲で焼失、家族は市東部の覚王山に仮住まいしていたため、知らせが届く事はなかった。ただ殉職の翌30日、父・儀一と恭一の婚約者が面会のため霞ヶ浦に着いており、二人も参列し翌日若しくは翌々日、部隊葬が行われた。その際の様子を秋水会関係者が次のように証言している。 彼は学生結婚していたのかなぁ・・・奥さんだか恋人だろうか、ひどく泣いていた方がおられたのを覚えています。 8月4日、儀一に海軍の同僚数名も付き添い8月4日、遺骨は郷里・名古屋に戻った。葬儀の翌日、一人の士官が鬼頭家を訪れ、次のように証言している。 禁じられていたことですが、ヘリコプターが前方を通過しました。それで事故が起こったのです。 決して恭一たちの過失で起った事故ではなかった事を伝えるため、この士官は来訪したのだと親族は察したという。
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