恫喝大使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 09:56 UTC 版)
「ドミトリー・ポリャンスキー」の記事における「恫喝大使」の解説
1976年のソ連共産党大会で農業不振の責任を追及され、政治局員と農相を解任され、駐日大使に任命された。日本に着任早々勃発したのがベレンコ中尉亡命事件である。その後も5年に渡る在任中に、200海里漁業問題、日中平和友好条約締結、ソ連のアフガニスタン侵攻、ポーランド戒厳令宣告および独立自主管理労働組合「連帯」の弾圧などの諸問題をめぐり日ソ関係は冷却化した。ポリャンスキー自身も外交の場で終始、高圧的な交渉態度で臨み「恫喝大使」のニックネームがついた。また、対ソ強硬派として知られた法眼晋作外務事務次官とパーティー会場で激論となったり、日本の国会議員とソ連大使館で喧嘩をしたり、あげくの果てには任期を終え、離日前のフェアウェルパーティーで米英仏3か国の駐日外交官が一切出席しないなどエピソードには事欠かなかった。なお、対日外交の不手際もあってか、在任中、党中央委員からも外されている。ブレジネフからユーリ・アンドロポフへ最高指導者が交代する1982年、駐ノルウェー大使に転じている。 2001年10月8日、84歳で死去した。
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