恭仁宮の造作停止と難波宮への遷都とは? わかりやすく解説

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恭仁宮の造作停止と難波宮への遷都

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:44 UTC 版)

彷徨五年」の記事における「恭仁宮の造作停止と難波宮への遷都」の解説

天平15年12月26日続日本紀には、平城京から移設した大極殿造営はほぼ完了したが、紫香楽宮造営注力するために以後恭仁宮造作停止する旨の記述みられる。翌天平16年744年正月には百官恭仁宮市人恭仁宮難波宮のどちらを都にすべきかを問うが、百官意見別れ市人恭仁宮残留望んだが、聖武恭仁宮出て難波への遷都開始する1月11日難波宮行幸し約2か月滞在した2月1日天皇公文書押される内印太政官公文書押される外印と駅令が恭仁宮から難波宮送られ2月20日には天皇御座所である高御座首都象徴する運ばれ同日武器類送られ首都として恭仁宮廃された。しかし2月24日聖武紫香楽宮戻って大仏造立専心し翌年5月には紫香楽宮叙位行っている。また後の経過から見て難波宮移転した廷臣橘諸兄など僅かな数であり、ほとんどは恭仁京残っていたとみられる元正太上天皇難波宮残ったため、二所朝廷成立したという見解もある。2月26日2月26日難波宮残った左大臣橘諸兄が「難波宮をもって皇都とする」旨の勅を読み上げた3月11日難波宮中門と外門に大と大鉾が立てられ、この地が皇都であることが庶民にも示された。10月には聖武唯一の男子であった安積親王病死している。

※この「恭仁宮の造作停止と難波宮への遷都」の解説は、「彷徨五年」の解説の一部です。
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