恭仁宮の造作停止と難波宮への遷都
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「彷徨五年」の記事における「恭仁宮の造作停止と難波宮への遷都」の解説
天平15年12月26日の続日本紀には、平城京から移設した大極殿の造営はほぼ完了したが、紫香楽宮の造営に注力するために以後は恭仁宮の造作を停止する旨の記述がみられる。翌天平16年(744年)正月には百官と恭仁宮の市人に恭仁宮と難波宮のどちらを都にすべきかを問うが、百官の意見は別れ、市人は恭仁宮残留を望んだが、聖武は恭仁宮を出て難波への遷都を開始する。1月11日に難波宮に行幸し約2か月間滞在した。2月1日に天皇の公文書に押される内印と太政官の公文書に押される外印と駅令が恭仁宮から難波宮へ送られ、2月20日には天皇の御座所である高御座と首都を象徴する大楯が運ばれ、同日に武器類も送られ、首都としての恭仁宮は廃された。しかし2月24日に聖武は紫香楽宮に戻って大仏造立に専心し、翌年5月には紫香楽宮で叙位を行っている。また後の経過から見て、難波宮に移転した廷臣は橘諸兄など僅かな数であり、ほとんどは恭仁京に残っていたとみられる。元正太上天皇は難波宮に残ったため、二所朝廷が成立したという見解もある。2月26日2月26日、難波宮に残った左大臣の橘諸兄が「難波宮をもって皇都とする」旨の勅を読み上げた。3月11日に難波宮の中門と外門に大楯と大鉾が立てられ、この地が皇都であることが庶民にも示された。10月には聖武唯一の男子であった安積親王が病死している。
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