寺社の世俗化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:39 UTC 版)
院政期には、「南都北嶺」などの大寺院が上述のような仏教保護政策に乗じて、荘園領主として世俗権力化していった。寺社は、自領の荘民や下級僧侶を大衆(のちに僧兵と呼称される)として多数かかえて武装化し、強訴によって自らの要求を押し通そうとする状況さえ生まれた。また、「奈良法師」と称された南都と北嶺とはお互い激しく対立したが、天台座主をめぐっては山門派と寺門派が同じ天台宗のなかでその地位を競った。永保元年(1081年)以降は延暦寺の僧兵による園城寺焼き討ち事件が起こっている。 こうした寺社権力の世俗化に対し、人びとはかえってそこに末法を感じて内面的な救済を求めることも多かった。寺社に属さない僧侶である聖の教えが広く普及する背景がそこにあった。また、このとき足湯の文化が発達した。
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