内田啓一の反「異形の王権」論
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「後醍醐天皇」の記事における「内田啓一の反「異形の王権」論」の解説
後醍醐天皇を宗教的・人格的な異常者と見なす網野善彦の「異形の王権」論に対しては、仏教美術研究者の内田啓一から疑問が提出された。内田は、『文観房弘真と美術』(2006年、法藏館)と『後醍醐天皇と密教』(2010年、法藏館)を発表し、網野説は根拠を欠き疑わしいことを指摘した。 内田はまず、後醍醐の仏教政策面での最大の腹心である文観房弘真の美術と経歴を調べた。文観は、網野によって、性的儀礼を信奉する武闘派の怪僧と定義された人物である。しかし、内田によればこのような人物像は敵対派閥による中傷文書と、『太平記』および後世の文書でしか確認できない。同時代の史料や美術作品に当たれば、文観は高徳の僧侶であり、さらに学僧としても画僧としても中世で最大級の業績をあげた人物であるという。また、文観は真言律宗の系譜の上では、後醍醐の祖父の亀山が帰依した叡尊の孫弟子に当たる。そして、真言宗の系譜の上では、後醍醐の父が帰依した道順の高弟であるから、文観と後醍醐の結びつきも突飛なものではなく、自然な流れであると考えられる。 網野らが幕府呪詛の像とした般若寺本尊の文殊像も、内田によれば、叡尊から続く真言律宗の伝統様式で作られており、銘文も定型句であり、そこに大げさな意味は見いだせない。また、『太平記』や網野は、後醍醐が正妃である中宮西園寺禧子の御産祈祷に偽装して、幕府へ呪詛の祈祷を行ったとする。しかし、安産祈祷で用いられた「聖天供」という儀式は仏教的にいえばあくまで息災法(除災や快癒を祈る祈祷)の儀式であり、幕府調伏の祈祷だとか性的儀礼だとかの、いかがわしい意味はとても考えにくいという。 内田は、後醍醐・文観が異形の人物であるという説を否定するとともに、後醍醐の親子関係にも焦点を当てた。佐藤や網野の説としては、後醍醐は朝廷の異端児であり、まともな父の後宇多上皇とは敵対したとされていた。しかし、実際に後醍醐の宗教活動を見てみると、灌頂(密教における授位の儀式)で、父の後宇多もかつて身につけたことがある「犍陀穀糸袈裟」(国宝)を使用するなど、父の足跡を辿っていることが多い。つまり、後宇多を敬愛し、その宗教政策を受け継いでいることを指摘した。また、異端かどうかについても、父の後宇多は、高野山の奥の院にこもったり、密教僧として弟子を取ったりなど大きな活動をしているが、後醍醐はそこまではしておらず、むしろ密教修行者としては父より穏健派であるという。
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