内田吐夢の推薦で監督にとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 内田吐夢の推薦で監督にの意味・解説 

内田吐夢の推薦で監督に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 08:53 UTC 版)

大西秀明」の記事における「内田吐夢の推薦で監督に」の解説

東横映画1951年昭和26年4月1日、他の2社と合併して東映設立同社撮影所東映京都撮影所になるが、大西ひきつづき新会社所属した1953年昭和28年7月2日当時松竹京都撮影所所属した阪東妻三郎が『あばれ獅子』(監督大曾根辰夫撮影中に倒れそのまま5日後に死去してしまい、そこで大西声帯模写の芸が買われ、阪東の代役としてアフレコをこなし、同作は無事、同年8月12日公開された。同業他社への出張業務多額ギャランティを手にした大西は、希望であった演出部への転向運動し、翌1954年昭和29年)には助監督身分変更勝ち得た演出部としての筆名大西 秀明とする。同年まで中国抑留されていた内田吐夢復員し東映入社内田復帰第1作血槍富士』を初めとし、多く内田作品助監督務めた滝沢一によれば大西が「人間的に演出技術面においても最も影響を受け」たのは内田であったという。1956年昭和31年1月8日公開され内田復帰第4作黒田騒動』では「チーフ助監督」として、大西の名がクレジットされている。 1958年昭和33年)、内田監督作大菩薩峠 第二部』のチーフ助監督務めた大西は、内田強力な推薦得て同年9月10日公開される里見浩太郎主演作神州天馬侠』で監督昇進する以降第二東映ニュー東映量産期通じ合計18作の時代劇映画監督する1964年昭和39年)には、京都撮影所長に復帰した岡田茂断行する第1次人員整理始まりこれを機に同年6月20日公開され近衛十四郎主演作悪坊侠客伝』を最後に同社退社した

※この「内田吐夢の推薦で監督に」の解説は、「大西秀明」の解説の一部です。
「内田吐夢の推薦で監督に」を含む「大西秀明」の記事については、「大西秀明」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「内田吐夢の推薦で監督に」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「内田吐夢の推薦で監督に」の関連用語

内田吐夢の推薦で監督にのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



内田吐夢の推薦で監督にのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大西秀明 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS