内田吐夢の推薦で監督に
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東横映画は1951年(昭和26年)4月1日、他の2社と合併して東映を設立、同社撮影所は東映京都撮影所になるが、大西はひきつづき新会社に所属した。1953年(昭和28年)7月2日、当時は松竹京都撮影所に所属した阪東妻三郎が『あばれ獅子』(監督大曾根辰夫)撮影中に倒れ、そのまま5日後に死去してしまい、そこで大西の声帯模写の芸が買われ、阪東の代役としてアフレコをこなし、同作は無事、同年8月12日に公開された。同業他社への出張業務で多額のギャランティを手にした大西は、希望であった演出部への転向を運動し、翌1954年(昭和29年)には助監督に身分を変更を勝ち得た。演出部としての筆名を大西 秀明とする。同年まで中国に抑留されていた内田吐夢が復員して東映に入社、内田の復帰第1作『血槍富士』を初めとし、多くの内田作品の助監督を務めた。滝沢一によれば、大西が「人間的にも演出技術面においても最も影響を受け」たのは内田であったという。1956年(昭和31年)1月8日に公開された内田の復帰後第4作『黒田騒動』では「チーフ助監督」として、大西の名がクレジットされている。 1958年(昭和33年)、内田の監督作『大菩薩峠 第二部』のチーフ助監督を務めた大西は、内田の強力な推薦を得て、同年9月10日に公開される里見浩太郎の主演作『神州天馬侠』で監督に昇進する。以降、第二東映・ニュー東映の量産期を通じ、合計18作の時代劇映画を監督する。1964年(昭和39年)には、京都撮影所長に復帰した岡田茂が断行する第1次人員整理が始まり、これを機に同年6月20日に公開された近衛十四郎の主演作『悪坊主侠客伝』を最後に同社を退社した。
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