黒田騒動とは? わかりやすく解説

くろだ‐そうどう〔‐サウドウ〕【黒田騒動】

読み方:くろだそうどう

江戸初期筑前福岡藩黒田家御家騒動藩主忠之と家老栗山大膳との確執から、寛永9年(1632)大膳は忠之に謀反心のあることを幕府出訴翌年裁定があって黒田家存続大膳陸奥盛岡藩南部家預けられた。講談歌舞伎などに脚色


黒田騒動

作者海音寺潮五郎

収載図書新装版 列藩騒動録 上
出版社講談社
刊行年月2007.5
シリーズ名講談社文庫


黒田騒動

読み方:クロダソウドウ(kurodasoudou)

初演 明治18.11(大阪中座)


黒田騒動

読み方:クロダソウドウ(kurodasoudou)

初演 嘉永5.8(江戸中村座)


黒田騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/01 10:22 UTC 版)

黒田騒動(くろだそうどう)は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。

経緯

黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之およびその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船「鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽を新規に雇い入れるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月、将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年におよぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用のも一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。

題材にした作品

江戸時代中期には江戸中村座などにて黒田騒動を題材にした歌舞伎が数多く上演された。最初は瀬川如皐作、外題『御伽譚博多新織』。のちに河竹黙阿弥により狂言『黒白論織分博多』として加筆集約化された。また幕末には合巻としては最長編である『しらぬひ譚』も歌舞伎化され、こちらも大好評を博した。

また、この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色して描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。滝口康彦の小説『主家滅ぶべし』では、利章は真面目で実直なものの、その忠義も独善的であるため主君と家中から疎まれてしまい、忠臣としての自身を保つために引き起こしたものとして描かれている。

1956年には東映で映画『黒田騒動』が公開されている。監督は内田吐夢、主演の栗山大膳役は片岡千恵蔵

1965年海音寺潮五郎が「列藩騒動録」新潮社を上梓、のち講談社で文庫化。

1971年、山田風太郎が短編『妖剣林田左文』で黒田騒動へとつながる事件を描いている。


黒田騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 21:41 UTC 版)

黒田忠之」の記事における「黒田騒動」の解説

忠之は生まれながら大藩御曹司であり、祖父や父とは違い性格奔放でわがままであったという。外見華美派手なものを好み、藩の財力ご禁制大型船舶鳳凰丸」などを建造したり、自らの側近集団組織し倉八正俊、郡慶成らを重用した一方で筑前端城領内主要6拠点支城城主始め、父・長政時代からの重臣たちと対立し、忠之は所領減封改易などの強硬策をとった。 寛永9年1632年)、六端城一つ麻底良城の城主栗山利章大膳)によって幕府に「黒田家幕府謀反疑いあり」と訴えられ黒田家改易危機に立たされた。いわゆる黒田騒動である。3代将軍徳川家光は自ら裁定下し栗山訴えは「精神的に異常であり藩主への逆恨み」と裁断し、のち幕命により倉八は高野山栗山盛岡藩南部家預けられ追放された。藩主黒田家お咎めなし正確に名目上いったん改易後旧領に再封する形を取ったであったが、このこともあり、長政懇意の仲であった幕府老中安藤直次幕府古老成瀬正虎らから連署で忠之へ書状送られ、「御父上のように年寄どもとご相談の上藩政進めるように促された。その結果、忠之の側近政治弱められ福岡藩政治は元の「重臣中心とした合議制」色が強くなった。 寛永14年1637年)、島原の乱出陣し武功挙げる寛永18年1641年)、江戸幕府海外貿易窓口として長崎を(いわゆる鎖国幕府直轄地長崎奉行地)に定めると、肥前佐賀藩鍋島家交代で、長崎警護幕命を受ける。忠之は長崎警護屋敷、港を造営し末次家や伊藤家、藩御用大賀家など数多く博多商人長崎博多を船で往来するうになるまた、このことにより福岡藩江戸参勤に於ける回数当主江戸滞在期間短縮など幕府から優遇を受ける。 承応3年1654年2月12日福岡城にて死去した享年53(満51歳没)。跡を長男・光之が継いだ

※この「黒田騒動」の解説は、「黒田忠之」の解説の一部です。
「黒田騒動」を含む「黒田忠之」の記事については、「黒田忠之」の概要を参照ください。

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