成瀬正虎とは? わかりやすく解説

成瀬正虎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/24 13:07 UTC 版)

成瀬正虎像(白林寺蔵)

成瀬 正虎(なるせ まさとら、文禄3年(1594年) - 寛文3年5月9日1663年6月14日))は、尾張犬山藩の第2代当主。

初代当主・成瀬正成の長男。母は森川氏俊の娘。正室は徳川義直の生母相応院の養女。継室も相応院の養女。子は成瀬正親(長男)、寺屋直龍(次男)、娘(板倉重大正室)、娘(志水忠継室)。他に養女(成瀬之虎の娘、小出英知室)。官位は隼人正

慶長13年(1608年)、徳川秀忠の小姓となり、4000石を与えられた。慶長19年の大坂の陣に従軍し、12月に義直に仕えるように命じられた。元和3年(1617年)、義直が名古屋へ入る時に1000石を加増された[1]

寛永2年(1625年)3月、父の死去により跡を継ぎ、8月に従五位下・隼人正に任じられた。寛永10年(1632年)、光友徳川家光御目見した際には付き添いとなり、家光から左文字の刀を拝領した。寛永3年と10年の義直上洛にも付き添って入洛した。犬山成瀬家は、大名クラスの石高を持ちながらもあくまで尾張藩の附家老であり、大名として認められていなかった。

成瀬正虎の墓(名古屋市平和公園)

万治2年(1659年)12月27日に隠居し、長男の正親が跡を継いだ。光友は隠居料5000石を与えようとしたが固辞し、この5000石は正親が拝領した。次男の直龍は寺屋直政の養子となっている。寛文3年(1663年)5月9日に70歳で死去した。法号は乾龍院一岳宗無居士。墓所は愛知県名古屋市中区栄の3丁目にある白林寺(のち平和公園に改葬)、犬山市臨渓院にも墓碑がある。

寛永11年(1634年)、狩りを行った義直に大猪が突進してきたのを、鈴木重之と共に身を挺して防いだ話が伝わる。

系譜

父母

正室、継室

  • 相応院の養女(正室)
  • 相応院の養女(継室)

子女

  • 成瀬正親(長男)
  • 寺屋直龍(次男)
  • 板倉重大正室
  • 志水忠継室

養女

脚注

  1. ^ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X

関連項目


成瀬 正虎

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「成瀬正虎」の記事における「成瀬 正虎」の解説

寛文3年5月9日1663年6月14日))は、尾張犬山藩第2代当主

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