妻子のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/17 23:37 UTC 版)
正武切腹後、残された於仙と幼い子供たちは実家の飫肥伊東家を頼った。長男の成瀬祐正(虎之助)は父正武と親しかった井伊直孝や土井利勝、安藤重信をはじめ、従兄弟の正虎、之成らと文通を続け、帰参を申し出続けるも聞き届けられず、伊東内膳祐正と改名し飫肥城松の丸にて失意のままその生涯を終える。 祐正の次男祐勝は父の意思を継ぎ成瀬伊織と名乗り、幕閣への帰参を願い出続ける。成瀬正虎の取り計らいで、一旦尾張藩へ仕官することになるが、振袖火事の影響で江戸詰めから本藩勤務となり、幕閣への帰参は遠のく。尾張藩では成瀬氏発祥の地である三河国足助庄成瀬郷高浜村の所領を与えられ、犬山成瀬の与力として高浜弥次右衛門を称するようになる。 この高浜弥次右衛門の嫡系子孫に、幕末に尾張藩で発生した青松葉事件に連座して処刑された十四士の一人、成瀬正順がいる。 また、伊東姓を賜姓された祐正の三男伊東正美は飫肥伊東家の一門三家のうちの一家である主水家の祖となり、同じく伊東姓を賜姓された正武の次男祐秋は図書家の祖となり、伊東氏御一門三家のうち二家は正武の子を祖とする。
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