妻子に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:48 UTC 版)
元親の正室は美濃斎藤氏の娘(元親夫人)で、永禄6年(1563年)に結婚している。尤も家臣らは遠国の美濃から迎えずとも四国の有力者から迎えるべきと薦めた。元親は「天神地祇にかけて、全く彼の息女が容色の沙汰を聞及びたるにあらず、色は兎もあれ角もあれ、祖父伊予守・父豊後守武名香ばしき士なれば、彼腹に出生の子、父祖にあやかる事あらんと思ふ計なり」と答えて武勇の血を引く彼女の系譜を重んじたという。この正室は明智光秀の重臣・斎藤利三の異父妹で、正確には石谷氏(室町幕府奉公衆)の娘ということになる。また、利三の生母は明智光秀の叔母とされていることから、のちにこの関係を通じて光秀、そして信長と関係を持つに至った。夫人に関する史料は乏しいためどのような女性だったかは不明であるが、長男の信親から四男の盛親までの4人の男児、長女の一条内政正室から4女の吉松十右衛門正室までの4男4女までを授かっていることから、夫婦仲は良好だったと思われる。 側室に阿波の細川氏に嫁いでいた小少将がおり、彼女との間に五男の右近大夫、また小宰相という側室との間には1男(六男で末子の康豊)1女が生まれたといわれる。 三女の阿古姫は大坂の陣の際に伊達政宗に捕えられたが助命され、二人の息子と共に仙台藩に仕えた。息子たちはそれぞれ重臣の家に養子入りし(五十嵐元成・柴田朝意)、仙台において元親の血をつないだ。このため阿古姫母子を頼って仙台へ行った長宗我部ゆかりの人々もおり、香宗我部親泰の子・貞親の養子・重親が仙台藩に召し抱えられたほか、吉松氏女(母は元親の四女)が従兄弟の朝意の継室となっている。
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