妻子と居所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 14:17 UTC 版)
アブドゥルマリクは数人の妻とウンム・ワラド(英語版)(女奴隷の内妻)との間に子供を儲けた。アブス族(英語版)の有力な族長であったズハイル・ブン・ジャズィーマ(英語版)の4代目の子孫にあたるワッラーダ・ビント・アル=アッバース・ブン・アル=ジャズはアブドゥルマリクとの間にワリード1世、スライマーン、マルワーン・アル=アクバル(英語版)の三人の息子たちと娘のアーイシャを儲けた。カリフのヤズィード1世の娘であるアーティカ・ビント・ヤズィード(英語版)はヤズィード2世、マルワーン・アル=アスガル、ムアーウィヤの三人の息子たちと娘のウンム・クルスームを産んだ。マフズーム家の出身で後にアブドゥルマリクと離婚したアーイシャ・ビント・ヒシャーム・ブン・イスマーイールは息子のヒシャームを産んだ。マフズーム家出身のもう一人の妻でイスラーム時代以前のクライシュ族の指導者であるヒシャーム・ブン・アル=ムギーラ(英語版)の4代目の子孫にあたるウンム・アル=ムギーラ・ビント・アル=ムギーラ・ブン・ハーリドは娘のファーティマを産み、ファーティマは後にウマル2世と結婚した。正統カリフのウスマーンの孫娘であるウンム・アイユーブ・ビント・アムル・ブン・ウスマーンは息子のアル=ハカムを儲けた。アル=ハカムは中世のアラブの系図学者からは若くして死去したとされているものの、多くの同時代のアラビア語の詩はアル=ハカムが成人期まで生きていたことを示唆しており、系図学者の史料とは情報が矛盾している。 同様にアブドゥルマリクはイスラームの預言者ムハンマドのサハーバ(教友)の一人であるタルハ・ブン・ウバイドゥッラー(英語版)の孫娘のアーイシャ・ビント・ムーサー・ブン・タルハと結婚し、アーイシャは息子のアブー・バクル・バッカールを産んだ。さらにタイイ族(英語版)出身のシャクラー・ビント・サラマ・ブン・ハルバスと結婚し、正統カリフのアリー・ブン・アビー・ターリブの兄であるジャアファル・ブン・アビー・ターリブ(英語版)の孫娘のウンム・アビーハー・ビント・アブドゥッラー・ブン・ジャアファルとも結婚していたが、後者はアブドゥルマリクがカリフとなって以降の時期に離婚した。その他には複数のウンム・ワラドとの間に息子のアブドゥッラー(英語版)、マスラマ(英語版)、サイード・アル=ハイル(英語版)、アル=ムンズィル、アンバサ、ムハンマド(英語版)、そしてアル=ハッジャージュを儲けたが、最後のアル=ハッジャージュはカリフの総督のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフにちなんで名付けられた。ヤアクービーによれば、アブドゥルマリクが死去した時点で息子のうち14人が存命であった。 アブドゥルマリクは存命中にダマスクスとその近隣にあるさまざまな季節ごとの住居を行き来していた。冬は主にダマスクスとティベリアス湖に近いシンナブラで過ごし、その後はゴラン高原のジャービヤや、ダマスクスのグータの果樹園を見渡せるカシオン山の斜面に位置する修道院の村であるダイル・ムッラーン(英語版)で過ごした。アブドゥルマリクは通常3月にダマスクスへ戻り、再び夏の暑い時期にベカー高原のバールベックへ向かい、秋の初めにダマスクスへ戻っていた。
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