妻妾論論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:49 UTC 版)
この論争は、森の「妻妾論」(第8号他、下記外部リンクで実物写真を見ることができる)を契機に起こったものである。森は非常に西欧文明に傾倒した人物で、その男女観・結婚観も西欧を基準としていた。すなわち「妻妾論」の根底には 一夫一婦制が自然という観念があったし、また自身の結婚も契約結婚であった。そういう森の眼には、日本における畜妾制・妻妾同居は不自然極まりないものとして映じた。それ故「妻妾論」では夫婦は必ず平等であるべきであって、家父長専制は文明に悖る、女性には家庭内の要である妻としての役割、教育を担う母としての役割があって、それを尊重すべきとした。つまり役割論に基礎を置いた夫婦平等がその内容であった。森の夫婦同等論は、夫婦同権論にまで踏み込むものでは無かったが、その後自由民権運動などと交叉する中で婦権拡張論として受け取られるようになっていった。 これに対し鋭い対立を見せたのが、加藤弘之と津田真道であった。加藤は「夫婦同権の流弊論」(第31号)において、西欧のレディファーストの慣習を取り上げ、これを東洋の人が真似るのは夫婦同権の行き過ぎた結果だと批判し、婦権拡張に極めて冷淡であった。その点津田も変わりない。加藤らは婦権拡張にも批判的で、婦人参政権を批判し、加藤は少年・凶人〔ママ〕・犯罪者・極貧者と並んで婦人に選挙権を与えないことを「正理」とした。 結果から言えば「妻妾論論争」は、夫婦間の私的な空間における男女平等については積極的な問題提起をしたが、公的な空間における政治的・社会的な男女同権については消極的姿勢に甘んじたと言って良い。しかし日本における家父長的家族制度に批判的な視線を投げかけたことにより、徐々に西欧的結婚観への支持を広げ、 1882年(明治15年)には妾という存在は少なくとも法的には認められないものとなった。
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