妻子について
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妻高源院は、北条綱成晩年の子であったとされる。曾孫氏宗の代の寛永5年(1628年)6月14日に死去。法名は高源院殿玉誉妙顔大禅尼。 高源院との婚姻は天正年間に入ってからとみられ、それ以前に今川氏の一門である関口氏広(氏純・親永)の娘を娶っていたとする説もある。これが事実ならば、その妻は徳川家康(当時は松平元康)の正室である築山殿の姉妹にあたる。また、浅倉直美はこの婚姻を婿養子としての縁組とし、「助五郎」の仮名は元々氏広の名乗りであったとする。この説は確定したものではないが、仮に婚姻が事実であれば、天正年間以前に死去したか、松平元康の今川氏からの離反によって関口氏広が自害に追い込まれた永禄5年(1562年)以降に離縁したとみられている。なお、氏規の小田原への帰還も、養父・氏広の失脚・自害が一因であるとしている。 氏規の子女については、「寛永諸家系図伝」などでは四男三女が挙げられている。「高室院文書」では次男として竜千代の存在が確認できる。系図では三男勘十郎のみ幼名が伝えられていないから、竜千代がそれにあたる可能性がある。次男菊千代、四男松千代は早世したと伝えられ、次男菊千代が早世したため、三男竜千代が次男と称されたと考えれば整合的に解釈できる。三男勘十郎は天正8年(1580年)生まれ。幼名を竜千代と称したとみられる。天正15年(1587年)3月21日に、家臣朝比奈泰寄を子・勘十郎の陣代に任じている。天正18年(1590年)1月には竜千代の被官が、本拠の三崎城か小田原城に籠城している。既に竜千代衆ともいうべき独自の家臣団が編成されている。滅亡後は氏規と共にし、天正19年(1591年)12月27日には在京している。その後の動向は勘十郎と同一人物とすれば、竜千代は豊臣秀次に仕え、秀次改易後は家康に仕えた。慶長5年(1600年)1月21日、父より1ヶ月前に死去。享年21。法名は松竜院殿月照梅翁大禅定門。 北条直定室は元和3年(1617年)6月18日に死去、法名智清禅定尼。日牌は子氏時によって、氏時の紀伊入国後の元和9年(1623年)に建立された。 白樫三郎兵衛室は、元和元年(1615年)9月5日死去、法名安養院殿光誉松顔大禅定尼。白樫氏は紀伊出身で浅野氏家臣と思われる。 娘の東条長頼室は、具体的なことは伝えられていない。東条長頼は受領名紀伊守を称し、父行長が豊臣家から徳川家に転じたのに伴い、当初から家康に仕え、家康の旗本になったとされる。東条長頼はのちに大藩である福島正則の改易の際の使者に選ばれるなど、一定の格式と重用が見られる。
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