妻子についてとは? わかりやすく解説

妻子について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:46 UTC 版)

北条氏規」の記事における「妻子について」の解説

高源院は、北条綱成晩年の子であったとされる曾孫氏宗の代の寛永5年1628年6月14日死去法名高源院殿玉誉妙顔大禅尼高源院との婚姻天正年間入ってからとみられ、それ以前今川氏一門である関口氏広(氏純・親永)の娘を娶っていたとする説もある。これが事実ならば、その妻は徳川家康当時松平元康)の正室である築山殿姉妹にあたる。また、浅倉直美はこの婚姻婿養子としての縁組とし、「助五郎」の仮名は元々氏広の名乗りであったとする。この説は確定したものではないが、仮に婚姻事実であれば天正年間以前死去したか、松平元康今川氏からの離反によって関口氏広自害追い込まれ永禄5年1562年以降離縁したとみられている。なお、氏規の小田原への帰還も、養父・氏広の失脚自害一因であるとしている。 氏規の子女については、「寛永諸家系図伝」などでは四男三女挙げられている。「高室院文書」では次男として竜千代存在確認できる系図では三男勘十郎のみ幼名伝えられていないから、竜千代がそれにあたる可能性がある。次男菊千代、四男松千代早世したと伝えられ次男菊千代早世したため三男千代次男称されたと考えれば整合的に解釈できる三男勘十郎は天正8年1580年生まれ幼名を竜千代称したとみられる天正15年1587年3月21日に、家臣朝比奈泰寄を子・勘十郎の陣代任じている。天正18年1590年1月には竜千代被官が、本拠三崎城小田原城籠城している。既に竜千代衆ともいうべき独自の家臣団編成されている。滅亡後は氏規と共にし、天正19年1591年12月27日には在京している。その後の動向勘十郎と同一人物とすれば、竜千代豊臣秀次仕え、秀次改易後家康仕えた慶長5年1600年1月21日、父より1ヶ月前に死去享年21法名松竜院殿月照翁大禅定門北条直定室は元和3年1617年6月18日死去法名智清禅定尼日牌は子氏時によって、氏時の紀伊入国後の元和9年1623年)に建立された。 白樫三郎兵衛室は、元和元年1615年9月5日死去法名安養院殿光誉顔大禅定尼白樫氏は紀伊出身浅野氏家臣思われる。 娘の東条長頼室は、具体的なことは伝えられていない東条長頼受領名紀伊守を称し、父行長豊臣家から徳川家転じたに伴い当初から家康仕え家康旗本になったとされる東条長頼はのちに大藩である福島正則改易の際の使者選ばれるなど、一定の格式重用見られる

※この「妻子について」の解説は、「北条氏規」の解説の一部です。
「妻子について」を含む「北条氏規」の記事については、「北条氏規」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「妻子について」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「妻子について」の関連用語

妻子についてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



妻子についてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの北条氏規 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS