近世以前の外交関係における人質とは? わかりやすく解説

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近世以前の外交関係における人質

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 07:17 UTC 版)

人質」の記事における「近世以前の外交関係における人質」の解説

歴史上しばしば見られる国交上の必要に応じて要求される、高い身分を持つ人質単純な被害者とは言い切れない。人質選ばれるのは王子など有力者の子弟であり、その人物は必然的に将来指導階級なるだけに、これを厚遇し好印象持たせることは保護国に取っても重要なであった人質とその一行は現在での大使館にも似た外交使節とも言えるかもしれない。そして最重要国中の姿を間近見て知り尽くすことが出来ること大きな利点である。 特に古代ローマがそうであった人質滞在先は慎重に吟味され元老院議員等の有力者の家でその子と共に学友としてローマ式の教育リベラル・アーツ)を施され留学生とも似た境遇となる。こうしてローマ・シンパとして育てられ人質帰国して指導階級となり、親ローマ立場を取ることで円満な外交関係築かれる事は正にローマ望むところであった。更に人質時代築かれ人脈はその関係を潤滑にする。 それはローマ以外のどの国、時代でも似たものであったろう。関係断絶の際にその立場生命危機も含む困難なものともなるが、平時にはその立場悪くはないものであった古代東アジアにおける「人質」は約束証拠である。王権間の特別の修好結縁際し、「盟」約にともなう国際的儀礼一環として、王の近親の者を一時期提供する政治的手段性質があり戦略的色彩が濃い。人質を送ることは服属意味するものではない。人質が「保証」の意義をもつことは一般の質の目的と共通である。 日本の戦国時代人質誓約の証とされたが、対象となったのは当主の子息やその母親、妻などで、成人男性基本人質となることはなかった。近世においては大名公儀への忠誠の証として、自らとその重臣家族を「証人」として、大坂江戸京都屋敷住まわせる慣行があった(大名証人制度)。寛文5年1665年)に重臣については証人制度廃止され大名妻子について幕末文久2年1862年)閏8月22日廃止された。

※この「近世以前の外交関係における人質」の解説は、「人質」の解説の一部です。
「近世以前の外交関係における人質」を含む「人質」の記事については、「人質」の概要を参照ください。

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