近世以前における日本法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 22:57 UTC 版)
詳細は「日本法制史」を参照 紀元前5世紀前後大陸から稲作が日本に伝わり、紀元前4世紀ころには水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立した。農耕社会の成立に伴い、大規模な集落が形成されるようになると社会において紛争が生じるようになる。古代の農村においては、部族の長が仲裁したり呪術による占いなどによって争いごとを解決したと考えられている。古墳時代になると、原始的な宗教が進化して、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占の法や、裁判に際して熱湯に手を入れ、手がただれるかどうかで主張の真偽を問う盟神探湯など呪術的な風習によって争いごとを解決するようになったようである。 一方で4世紀の中ごろにヤマト政権が東北中部まで勢力を拡大していくと、法制の整備が求められるようになる。604年には、聖徳太子により十七条憲法が定められたとされており、これは、近代的な憲法と異なるが、官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したものであり、仏教の影響力をうけているものであるが、豪族の連合体から天皇を中心とした政治体制を確立しようという意思が感じられるものとなっている。もっとも、この事実が存在したかについては疑いが強い。 607年には、遣隋使が派遣され、630年には第1回目の遣唐使が派遣されるようになると、中央集権的な国家体制を支える仕組みとして唐の律令法を継受した。すなわち、唐の律令を参考として独自の律令の編纂が開始され、668年には近江令が、689年には飛鳥浄御原令が制定されたとされるが、不明な点が多い。701年には、大宝律令が完成した。718年には、養老律令が藤原不比等によりまとめられ、757年に施行されたが、平安中期には形骸化した。ただ、律令そのものは、存続しその一部は明治の初頭まで効力を持っていたものもある。律は今日でいう刑法にあたり、令は行政組織や人民の租税・労役などに関する規定をおいており、主として今日でいう行政法(そのほか、家族法や手続法に相当する規定も)にあたる。いずれも、儒教的色彩が強かった。なお、西洋法と異なり、私法という概念は存在せず、人民はすべて官との関係で規律されており、契約などについて直接規律するものではなかった。 9世紀になると、社会の変化に応じ律令の規定を修正したり施行規則である格式が整備されるようになり、三代格式が制定される。 しかし、律令制の崩壊とともに、律令の実効性も失われるようになり、荘園領主の力が強くなると、荘園においては荘園領主の本所法が発達するようになる。さらに、武家の力が台頭すると武家法が成立するようになり、鎌倉時代においては、特に前期においては朝廷の力が強かったので、なお、旧来の律令法を基礎として発展した公家法との二元的な法秩序が形成されるようになる。 1232年には、北条泰時が御成敗式目を定め、頼朝以来の先例や道理といわれた武家社会での慣習を集め、御家人同士や御家人と荘園領主との紛争解決を裁く基準を明らかにし、武家で最初の体系的法典であった。これは、後の室町幕府にもこの御成敗式目を基本的に受け継がれた。 戦国時代になると、各国の領主がそれぞれの領地の秩序を確立するため分国法とよばれる領主法を整備した。その主な内容は、喧嘩両成敗や楽市・楽座など戦国領主が下克上の世の中で、いかに軍事力・経済力を向上させるかという観点から定められたものが多い。だが、この時代において、すべての大名が分国法を整備したわけではなかった。実際、この時代は、村や町の共同体や武家社会などにおける、慣習法の影響力も強かったのである。 江戸時代になると、江戸幕府は幕藩体制を固めるとともに、将軍の代替わりごとに武家諸法度を定めて、大名の統制にあたるとともに、8代徳川吉宗の時代には公事方御定書を定め、それまでの幕府法令や裁判の判例を集大成した。
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