沼田御守城とは? わかりやすく解説

沼田御守城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 02:55 UTC 版)

小松姫」の記事における「沼田御守城」の解説

慶長5年1600年)、秀吉の没後五奉行石田三成挙兵すると、夫の信之は家康率い東軍付き、父・昌幸と弟・信繁三成率い西軍付いた袂を分かった昌幸・信繁親子居城の上田城に戻る際、沼田城立ち寄り城に入ろうとしたところ、留守を預かる小松姫が昌幸の計略見抜いて開門拒み女丈夫謳われたとの逸話残されている。 真田氏家記滋野世記』によれば次のような内容記されている。 昌幸は信繁同道にて犬伏の宿を打立て夜中沼田に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中入申事成難く候と仰ける(中略)。暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑著し、旗を取り腰掛居り城中留守居家人等其外諸士妻女に至るまで、皆甲冑著し、あるいは長刀持ち、あるいは弓取り列座せり。時に信幸の室家大音宣うは、殿には内府御供にて御出有し御留守伺い父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等討ち取るべし(中略)、一人打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢い御覧ありて大い感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。御家人等を制し止められ、夫より我妻かかり、上田城篭城なり。 また、『改正三河後風土記』によれば小松姫は昌幸から「今生暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」との申し出を受けるが、これを断ると侍女遣わして昌幸らを城下旅宿案内し丁重にもてなした。その一方で城中家臣には弓や鉄砲狭間配置させ相手方襲撃備えるように命じた。これを見た昌幸は家臣向かって「あれを見候へ日本一本多忠勝が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ」と、その手並み褒め称えた記している。このほかにも『御家書留書』『真田武功記』『沼田記』『出浦助昌家記』などに沼田城留守守った逸話記されている。 この逸話については小松姫沼田居たかどうか問題となるが、豊臣政権下において諸大名妻子伏見次いで大坂屋敷移り住んでいたという点と同年7月30日付の大谷吉継から昌幸に宛てられ書状解釈問題となる。 黒田は「大坂で吉継に保護され不在であったので事実ではない」としており、丸島2015年時点では吉継書状に「信幸の妻子保護した」と記されてあり、これが側室であった清音院殿のことであれば問題ないが、普通に考えれば正室を指すはずという点から創作可能性指摘していた。しかし、平山はこの書状について昌幸、信繁親子妻子については吉継が預かっているが、信之の妻女については「伊豆殿女中改候間、去年くだり候」と記されていることから、三成挙兵前年にあたる慶長4年1599年)の時点小松姫は「女中改」という口実で、沼田引き上げていたと指摘している。平山丸島はともに2016年著作石田三成による徳川家康への弾劾状「内府ちかひ(違い)の条々」における一節「諸侍の妻子、ひいきひいきニ国元へ返候事」との一文指摘し家康一部大名人質帰国勝手に認めており、信幸の妻子家康計らい贔屓)によって帰国していたと解釈しうるとしている。

※この「沼田御守城」の解説は、「小松姫」の解説の一部です。
「沼田御守城」を含む「小松姫」の記事については、「小松姫」の概要を参照ください。

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