網野善彦の「異形の王権」論とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 網野善彦の「異形の王権」論の意味・解説 

網野善彦の「異形の王権」論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「網野善彦の「異形の王権」論」の解説

佐藤進一進歩的暗君説を極限にまで発展させて、独自の説と言えるまで特異な論を為したのが、網野善彦による「異形の王権」論である。 網野は『異形の王権』(1986年)で、後醍醐天皇を「ヒットラー如き人物評し、「異形」の天皇呼んだ。そして、後醍醐天皇が「邪教」の仏僧文観や「悪党楠木正成従え、「異類異形の輩」や非人といった、本来は正道から外れた階層取り込むことで強大な力を得た主張するまた、元徳元年1329年)に後醍醐が行った祈祷が「聖天供」(大聖歓喜天浴油供であったことについて、大聖歓喜天は像頭人身の男女抱き合う像で表されることを指摘し、「極言すれば後醍醐はここで人間深奥の自然――セックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではないだろうか」と述べこれをもって異類異形」の中心たる王に相応し天皇としている。そしてまた当時下剋上空気の中、天皇の位が「遷代の職」(世襲ではなく人々の間を移り変わる職)である「天皇職」と化しつつあり、天皇家以外の者が「天皇職」に「補任」される(就任する可能性あるよう巨大な危機迫っていた、と主張する。そして、花園後醍醐二人はそれをいち早く嗅ぎ取り花園道義身につけることで、後醍醐異形異類の力や貨幣の力といった「魔力」を身につけることで天皇家危機対抗しようとしたが、建武の新政後後醍醐はたちまち現実の「きびしい復讐」に直面しその後佐藤進一定説通り没落をしたのだとする。 森茂暁は、網野説について、宗教面での実証的史料掘り起こしたことや、硬直しつつあった後醍醐天皇観に新風与えたことについては評価し、その密教修行にも異形と言ってよい面があることは認める。しかし、文観異端僧とするのは政敵僧侶からのレッテル張りではないか疑問示し、また『建武記』には「異形の輩」の侵入禁じる文があるのだから、どちらかといえば後醍醐は「異形の輩」なるものとは距離を置いていたのではないか、と指摘している。また、亀田俊和は、網野説は建武政権失政捉え、その失敗後醍醐天皇個人的性格求める点では、結局のところ『太平記』史観と変わるものがない、と指摘している。

※この「網野善彦の「異形の王権」論」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「網野善彦の「異形の王権」論」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「網野善彦の「異形の王権」論」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「網野善彦の「異形の王権」論」の関連用語

網野善彦の「異形の王権」論のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



網野善彦の「異形の王権」論のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの後醍醐天皇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS