網野善彦の「異形の王権」論
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「後醍醐天皇」の記事における「網野善彦の「異形の王権」論」の解説
佐藤進一の進歩的暗君説を極限にまで発展させて、独自の説と言えるまで特異な論を為したのが、網野善彦による「異形の王権」論である。 網野は『異形の王権』(1986年)で、後醍醐天皇を「ヒットラーの如き」人物と評し、「異形」の天皇と呼んだ。そして、後醍醐天皇が「邪教」の仏僧文観や「悪党」楠木正成を従え、「異類異形の輩」や非人といった、本来は正道から外れた階層を取り込むことで強大な力を得たと主張する。また、元徳元年(1329年)に後醍醐が行った祈祷が「聖天供」(大聖歓喜天浴油供)であったことについて、大聖歓喜天は像頭人身の男女が抱き合う像で表されることを指摘し、「極言すれば、後醍醐はここで人間の深奥の自然――セックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではないだろうか」と述べ、これをもって「異類異形」の中心たる王に相応しい天皇としている。そしてまた、当時は下剋上の空気の中、天皇の位が「遷代の職」(世襲ではなく人々の間を移り変わる職)である「天皇職」と化しつつあり、天皇家以外の者が「天皇職」に「補任」される(就任する)可能性もあるような巨大な危機が迫っていた、と主張する。そして、花園と後醍醐の二人はそれをいち早く嗅ぎ取り、花園は道義を身につけることで、後醍醐は異形異類の力や貨幣の力といった「魔力」を身につけることで天皇家の危機に対抗しようとしたが、建武の新政後、後醍醐はたちまち現実の「きびしい復讐」に直面し、その後は佐藤進一の定説通りの没落をしたのだとする。 森茂暁は、網野説について、宗教面での実証的史料を掘り起こしたことや、硬直しつつあった後醍醐天皇観に新風を与えたことについては評価し、その密教修行にも異形と言ってよい面があることは認める。しかし、文観を異端僧とするのは政敵の僧侶からのレッテル張りではないかと疑問を示し、また『建武記』には「異形の輩」の侵入を禁じる文があるのだから、どちらかといえば後醍醐は「異形の輩」なるものとは距離を置いていたのではないか、と指摘している。また、亀田俊和は、網野説は建武政権を失政と捉え、その失敗を後醍醐天皇の個人的性格に求める点では、結局のところ『太平記』史観と変わるものがない、と指摘している。
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