元弘の倒幕計画の発端とは? わかりやすく解説

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元弘の倒幕計画の発端

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:26 UTC 版)

元弘の乱」の記事における「元弘の倒幕計画の発端」の解説

『太平記』では、後醍醐天皇への無罪判決は、幕府弱腰姿勢結果であり、実際に天皇執念深く倒幕計画練っていたと物語られており、歴史学としてもこれに近い見方をするのが通説見解である。 伝統的見解支持する森茂暁によれば後醍醐倒幕傾向がさらに強まり、新段階入ったのは、1326年ではないかという。正中3年3月20日1326年4月23日)に大覚寺統皇太子邦良親王薨去して、持明院統量仁親王(後の光厳天皇)が立坊され、さらに嘉暦への改元挟み関東申次代々務め西園寺家当主地位が、嘉暦元年11月18日1326年12月13日)に西園寺実衡薨去したことで、持明院統寄りである西園寺公宗交代するなど、後醍醐にとって不利な事件立て続け起こったことが論拠として挙げられる。 しかし、2007年河内祥輔によって、後醍醐天皇はこの時点ではまだ幕府との協調路線望んでおり、天皇本当に冤罪だったとする新説唱えられ亀田俊和大筋での積極支持表明し呉座勇一蓋然性は高いと見ている。 『太平記』には、元亨2年1322年)の春より後醍醐天皇中宮西園寺禧子御産祈祷称して真言律宗真言密教の僧である円観文観らに「関東調伏」の祈祷をさせたとする記事載せられており、通説見解支持する百瀬今朝雄は、この祈祷実際に嘉暦元年1326年)から足かけ4年にわたるもので青蓮院慈道法親王なども祈祷加わっていたことを指摘した上で中宮懐妊事実虚偽であって実際には「関東調伏」のための祈祷であった結論付けた。これに対して前述河内百瀬年代考証認めるものの、「御産祈祷」が邦良親王薨去の3か月後から始まっていることに着目して後醍醐関東申次代々務め西園寺家出身女性母親とする親王誕生すれば邦良亡き後皇位継承問題一気有利に立てることを指摘して百瀬はじめとする伝統的通説が「御産祈祷」を〈出産祈願のための祈祷〉と解しているのが誤りであり、これは〈懐妊祈願のための祈祷であって実際に御産祈祷が行われていたと主張している。 始めとする伝統的見解対し正中の変冤罪説支持する亀田主張では、後醍醐倒幕志したのは、聡明さ実母家格の高さから後醍醐世継ぎ目されていた世良親王元徳2年9月17日1330年10月29日)に病死し自身皇統存続させるのが難しくなった時点からではないか逆に言えば、この時点までは後醍醐幕府協調関係にあったではないか)という。また、河内主張元徳2年頃に鎌倉幕府成長した邦良の遺児康仁親王)を将来皇位継承者とする方針固め、また余りにも長期にわたる「御産祈祷」が幕府疑惑招いた結果後醍醐に対して量仁への譲位圧力強めてきたことで後醍醐討幕に向かわせたとする。 こうして、後醍醐天皇側近日野俊基前述文観らと本格的な倒幕計画進めた

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