元弘の倒幕計画の発端
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『太平記』では、後醍醐天皇への無罪判決は、幕府の弱腰姿勢の結果であり、実際には天皇は執念深く倒幕計画を練っていたと物語られており、歴史学としてもこれに近い見方をするのが通説的見解である。 伝統的見解を支持する森茂暁によれば、後醍醐の倒幕傾向がさらに強まり、新段階に入ったのは、1326年ではないかという。正中3年3月20日(1326年4月23日)に大覚寺統の皇太子邦良親王が薨去して、持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)が立坊され、さらに嘉暦への改元を挟み、関東申次を代々務める西園寺家の当主の地位が、嘉暦元年11月18日(1326年12月13日)に西園寺実衡が薨去したことで、持明院統寄りである西園寺公宗に交代するなど、後醍醐にとって不利な事件が立て続けに起こったことが論拠として挙げられる。 しかし、2007年に河内祥輔によって、後醍醐天皇はこの時点ではまだ幕府との協調路線を望んでおり、天皇は本当に冤罪だったとする新説が唱えられ、亀田俊和が大筋での積極的支持を表明し、呉座勇一も蓋然性は高いと見ている。 『太平記』には、元亨2年(1322年)の春より後醍醐天皇が中宮(西園寺禧子)御産の祈祷と称して真言律宗・真言密教の僧である円観・文観らに「関東調伏」の祈祷をさせたとする記事が載せられており、通説的見解を支持する百瀬今朝雄は、この祈祷は実際には嘉暦元年(1326年)から足かけ4年にわたるもので青蓮院の慈道法親王なども祈祷に加わっていたことを指摘した上で、中宮の懐妊の事実は虚偽であって実際には「関東調伏」のための祈祷であったと結論付けた。これに対して、前述の河内は百瀬の年代考証は認めるものの、「御産祈祷」が邦良親王薨去の3か月後から始まっていることに着目して、後醍醐に関東申次を代々務める西園寺家出身の女性を母親とする親王が誕生すれば邦良亡き後の皇位継承問題で一気に有利に立てることを指摘して、百瀬をはじめとする伝統的通説が「御産祈祷」を〈出産祈願のための祈祷〉と解しているのが誤りであり、これは〈懐妊祈願のための祈祷〉であって実際に「御産祈祷」が行われていたと主張している。 森を始めとする伝統的見解に対し、正中の変冤罪説を支持する亀田の主張では、後醍醐が倒幕を志したのは、聡明さと実母の家格の高さから後醍醐の世継ぎと目されていた世良親王が元徳2年9月17日(1330年10月29日)に病死し、自身の皇統を存続させるのが難しくなった時点からではないか(逆に言えば、この時点までは後醍醐と幕府は協調関係にあったのではないか)という。また、河内の主張も元徳2年頃に鎌倉幕府が成長した邦良の遺児(康仁親王)を将来の皇位継承者とする方針を固め、また余りにも長期にわたる「御産祈祷」が幕府の疑惑を招いた結果、後醍醐に対して量仁への譲位の圧力が強めてきたことで後醍醐を討幕に向かわせたとする。 こうして、後醍醐天皇は側近の日野俊基や前述の文観らと本格的な倒幕計画を進めた。
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