元弘元年の地震とは? わかりやすく解説

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元弘元年の地震

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 08:00 UTC 版)

正平地震」の記事における「元弘元年の地震」の解説

『太平記』には、本地震の30年前元弘元年1331年)に、紀伊地震発生し千里浜遠干潟隆起して陸地になり、その4日後、駿河地震発生し富士山頂崩落があったとする記録がある。 元弘元年元徳3年7月3日1331年8月7日[J]、8月15日[G])- 紀伊地震震央推定)は北緯3342東経135度12分 / 北緯33.7度 東経135.2度 / 33.7; 135.2、規模はM≧7。千里浜遠干潟隆起元弘元年元徳3年7月7日1331年8月11日[J]、8月19日[G])- 駿河地震富士絶頂崩壊。 これを東海道沖地震関連の深い地震位置付ける見方もある。 『太平記』巻第二天下怪異嘉暦年の春の比南都大乗院禅師房と六方大衆と、確執の事有て合戦に及ぶ。金堂講堂南円堂西金堂、忽に兵火余煙焼失す。又元弘元年山門東塔北谷より兵火出来て四王院延命院大講堂法華堂常行堂一時に灰燼と成ぬ。是等をこそ、天下災難を兼て知する処の前相かと人皆魂を冷しけるに、同年七月三日大地震有て、紀伊国千里浜遠干潟俄に陸地になる事二十余町也。又同七日酉の刻地震有て、富士絶頂崩るゝ事数百丈也と。 感応寺第三住職日寿の伝記に「この地震感応山滝泉寺が崩壊しその後駿府移転され改名されたのが今の感応寺である」とあり、寺の移転事実が『日蓮宗宗学全書』でも確認され元弘元年駿河地震存在が確かであるとされる一方、この1331年地震記事疑わしい部分があり、感応寺記録『太平記』独立であるとは限らないとされる

※この「元弘元年の地震」の解説は、「正平地震」の解説の一部です。
「元弘元年の地震」を含む「正平地震」の記事については、「正平地震」の概要を参照ください。

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