元弘の乱と直経
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 21:36 UTC 版)
「元弘の乱」も参照 元弘2年/正慶元年(1332年)、楠木正成が挙兵し、千早城に籠もった。9月に幕府の命を受けた直経は、厚東武実、大内弘幸ら他の西国の武士と同様に千早城攻めに加わることとなった。 元弘3年/正慶2年(1333年)2月には、最前線での戦闘に二度に渡って参戦した。この時の直経の戦いぶりは凄まじく、千早城の大手門に一族郎党と突撃し、大きな傷だけでも4ヶ所、小さい傷を合わせると22ヶ所を負傷する重傷を負いながらも大手門付近の敵兵をなぎ倒した。しかしこの奮闘にも関わらず戦況は不利で、結局千早城攻撃軍は瓦解することとなった。その後は足利高氏側に加わり、護良親王の使者四条隆貞からの指令を受けている。そして高氏は5月7日に六波羅探題を攻め滅ぼし、5月22日には新田義貞らによって鎌倉が落とされ、鎌倉幕府は滅亡する。
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