元弘の乱勃発
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元徳3年4月29日(1331年6月5日)、吉田定房の密告により後醍醐天皇と鎌倉幕府・北条得宗家の戦いである元弘の乱が勃発。 幕府から後醍醐への取り調べ続く中、同年8月20日、後醍醐と禧子の娘で伊勢神宮斎宮の懽子内親王が賀茂の河原で身を清め、野宮(ののみや)に入った(『増鏡』「久米のさら山」)。野宮というのは嵯峨野にある施設で、伊勢神宮斎宮の儀式に使われる場である。なお、懽子は前年の元徳2年(1330年)12月19日に斎宮に卜定(選定)されていた。この時期に野宮入りしたことについて、井上宗雄によれば、後醍醐としても挙兵前に娘の大事な儀式を完了しておきたかったのではないかという。 同じく『増鏡』「久米のさら山」によれば、8月24日、武力行使の計画を幕府に気付かれたことを知った後醍醐は、急を要する事態にもかかわらず、まずまっさきに禧子のもとに駆けつけて別れの挨拶を述べた。それから急ぎ宮中と京を出て笠置山へ向かい、戦の準備をした。後醍醐の宮中脱出の際には粗末な女房車が用いられたが(『増鏡』『太平記』)、『太平記』は特に禧子の北山第(西園寺家別荘)へのお忍び行啓に見せかけて武士の検問を逃れたと描いている 。その後、同日夜、幕将小田時知が内裏に入り捜索を開始したので、禧子は娘の懽子がいる野宮に逃れたという。
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