元弘の乱勃発とは? わかりやすく解説

元弘の乱勃発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)

西園寺禧子」の記事における「元弘の乱勃発」の解説

元徳3年4月29日1331年6月5日)、吉田定房密告により後醍醐天皇鎌倉幕府北条得宗家戦いである元弘の乱勃発幕府から後醍醐への取り調べ続く中、同年8月20日後醍醐と禧子の娘で伊勢神宮斎宮懽子内親王賀茂河原で身を清め野宮ののみや)に入った(『増鏡』「久米のさら山」)。野宮というのは嵯峨野にある施設で、伊勢神宮斎宮儀式使われる場である。なお、懽子は前年元徳2年1330年12月19日斎宮卜定選定)されていた。この時期野宮入りしたことについて、井上宗雄によれば後醍醐としても挙兵前に娘の大事な儀式完了しておきたかったではないかという。 同じく増鏡』「久米のさら山によれば8月24日武力行使計画幕府気付かれたことを知った後醍醐は、急を要する事態にもかかわらず、まずまっさきに禧子のもとに駆けつけ別れ挨拶述べた。それから急ぎ宮中と京を出て笠置山向かい、戦の準備をした。後醍醐宮中脱出の際には粗末な女房車用いられたが(『増鏡『太平記』)、『太平記』は特に禧子の北山第西園寺家別荘)へのお忍び行啓見せかけ武士の検問逃れた描いている 。その後同日夜、幕将小田時知が内裏入り捜索開始したので、禧子は娘の懽子がいる野宮逃れたという。

※この「元弘の乱勃発」の解説は、「西園寺禧子」の解説の一部です。
「元弘の乱勃発」を含む「西園寺禧子」の記事については、「西園寺禧子」の概要を参照ください。

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