元弘の乱と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:09 UTC 版)
元弘元年(1331年)9月、後醍醐天皇の倒幕計画から元弘の乱が起こると、北条高時が畿内の反幕勢力討伐に派遣した討手に加わっている。 元弘3年/正慶2年(1333年)5月、鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞らが上野で挙兵して鎌倉に攻め上ってくると、北条貞顕や安房・上野・下野の御家人らと共に化粧坂の守備を務めた。基時はよく防衛したが、5日間の激戦の末に極楽寺坂や巨福呂坂など別の攻め口から突破した新田軍が鎌倉市街に侵入したため、この合戦の2週間前に近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように、残り少なくなった部下と共に自害した。享年48。 辞世の歌は「待てしばし 死出の山辺の 旅の道 同く越て 浮世語らん」であり、この歌は先に自刃した仲時の事を思って詠じたと言われる。
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