元弘の乱時の吉野城とその遺構
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「吉野城」の記事における「元弘の乱時の吉野城とその遺構」の解説
吉野城の全容に関しては右図を参考(現在の地図を参考にして作成したため、地形や河川などは当時のものとは異なっているので注意)。 元弘の乱の際に構築されたと伝えられるものとして六田、丹治、一の坂、飯貝の4つの城塁と大橋、天王橋(または天皇橋)、丈之橋(または城之橋)の橋が架かった空堀がある。 このうち一の坂は従来の吉野山への参道の途中ということもあり遺構は消滅している。また空堀も車が通行できるようにするため大橋と天王橋が鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられ一部が埋め戻されている。丈之橋は完全に埋め戻されて跡地を示す石碑のみ残っている。なお、飯貝の城塁に関しては関しては室町時代後期、1476年(文明8年)に蓮如が飯貝の地に一宇を建て、後に今の本善寺を創建したが、後年にその背後にある六雄山に砦を構えたとある。また筒井順慶による吉野攻撃作戦では丹治城、飯貝城に吉野方の武士や門徒衆らが立て籠もったとあり、このうち飯貝城および本善寺は焼かれたとあり、現在に残る飯貝、丹治の城の遺構は室町時代後期に改修されたものと考えられている。 丈六平 - 現在の吉野神宮付近。広い台地になっており、神宮造営以前は「勝福寺」という寺があり身の丈、1丈6尺(4.85メートル)の蔵王権現を祀った「丈六山一之蔵王堂」があったとされる。吉野城の遺構は無いが、二階堂の軍勢がここに陣取ったとされる。 峯の薬師堂 - 吉野城の遺構は無いが、今の村上義光の墓の北側にかつて峯の薬師堂があり、ここで幕府方の武将が親王を装った村上義光の首を検分し偽首と見破ってうち捨てたとされる。 セビ坂・黒門・銅の鳥居 - 急坂の途中に黒門と呼ばれる金峯山寺の総門があり、さらに登ると銅の鳥居がある。銅の鳥居は1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)に高師直の軍勢により焼かれ、その後に再建された(時期は不明だが、蔵王堂が再建された1455年(康正元年)頃と考えられる)。 金峯山寺 蔵王堂 - 1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)に高師直の軍勢により焼かれたとあり、107年後の1455年(康正元年)に再建。蔵王堂はその後も焼失しており現在のは1591年(天正19年)に再建されたもの。 仁王門 - 蔵王堂の北側にある門。下層が延元年間(1336年-1340年)、上層が康正年間(1455年-1457年)のものとされる。 二天門跡 - 蔵王堂の南側にあった門。護良親王に扮した村上義光がこの門で自害したとされる。「村上義光公忠死之所」と記した石柱が立つ。 勝手明神 - 勝手神社。この付近から西の谷へ下り、下市や黒滝・天川・十津川へと抜けることが出来る。護良親王が落ち延びた道と考えられる。また名賀生へと移る後村上天皇も社前で歌を詠んだと『太平記』にある。現在の県道はのちに付けられたもので当時のルートとは多少、異なる。途中に村上義隆の墓がある。 火見櫓 - 吉野城の遺構。見通しの良い場所にあり吉野山が一望でき、遠くは竜門山地、金剛山地を見渡せ、のろし場として使われていたようである。近くに昭和14年に建律された大塔宮仰徳碑がある。 ツツジヶ城(高城山) - 吉野城の詰城として築かれたと伝わる。山頂部は台地になっており現在は休憩所がある。北側の麓には牛頭天王社跡があり、ツツジヶ城の鎮守として創立されたと伝わる。 愛染宝塔 - 吉野の奥の院で「安禅寺」と呼ばれる寺院があり、蔵王堂はじめ多数の寺院宝塔があったとされる。大塔宮護良親王が吉野山に最初に現れた場所でもある。ここより南は女人結界で大峰山へと入っていく。また西の尾根沿いに行くと鳳閣寺があり、黒滝・天川・十津川や下市へと抜けることが出来る。明治の廃仏毀釈で廃寺となり遺構は残っていない。 金峯山寺総門・黒門 銅の鳥居 金峯山寺・仁王門 金峯山寺・蔵王堂 金峯山寺・蔵王堂前の4本の桜。護良親王が最期の酒宴をしたと伝えられる 金峯山寺・二天門跡
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