化粧坂とは? わかりやすく解説

けわい‐ざか〔けはひ‐〕【化粧坂】

読み方:けわいざか

高貴な姫君有名な遊女が、そこで化粧をしたという伝説の残る坂。また、その伝説。

[補説] 地名別項。→化粧坂


けわいざか〔けはひざか〕【化粧坂】

読み方:けわいざか

鎌倉市北西部にある坂。葛原からくる急坂で、鎌倉七口の一。


化粧坂

作者皆川博子

収載図書薔薇忌
出版社実業之日本社
刊行年月1990.6

収載図書薔薇忌
出版社集英社
刊行年月1993.11
シリーズ名集英社文庫

収載図書皆川博子作品精華 迷宮ミステリー編
出版社白泉社
刊行年月2001.10


化粧坂

作者伊集院静

収載図書峠の声
出版社講談社
刊行年月1992.1


化粧坂

読み方:ケショウザカ(keshouzaka)

所在 宮城県気仙沼市


化粧坂

読み方:ケショウザカ(keshouzaka)

所在 宮城県遠田郡美里町


化粧坂

読み方:ケハイザカ(kehaizaka)

所在 福島県田村郡三春町

地名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

化粧坂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/06 21:28 UTC 版)

化粧坂
化粧坂
所在地
地図

化粧坂(けわいざか)は鎌倉七口のひとつで、現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷から源氏山公園を結ぶ切通し道。仮粧坂(けはいざか)[1]とも表記する。

概要

主に武蔵国国府(現在の府中市国分寺市)から上野国へ向かう道(鎌倉街道上道)の出口と考えられているが、鎌倉時代初期には武蔵国の東の方へ向かう鎌倉街道中道、下道もまたここを通った可能性もある。

名の由来

名の由来として以下のような説が伝えられている。

  • 平家の大将の首を化粧し首実検したから[2]
  • この辺に遊女がいたから[2]
  • 険しい坂が変じたという説
  • 坂の上で商取引が盛んで「気和飛坂」
  • 木が多いので「木生え坂」          など

「化粧」を「ケショウ」と読むとそれは現在の意味の通りに「白粉でお化粧」の意味であるが、古くは「ケワイ」とも読み、その場合は「身だしなみを整える」と言う意味に使われる。

その意味からは「都市」=「ハレの場」に入る境で「身だしなみを整える」と言う意味で「ケワイ(化粧)坂」、つまりは「鎌倉中」への境界である坂との意味と考えるのが自然であると言う説がある[3]

鎌倉以外にも「化粧坂」という地名は各地にみられ、多くは中世国府守護所などの近葉に見られる。その伝承の中にも境界で「身だしなみを整える」と解釈出来るものがある。

鎌倉時代・南北朝時代の化粧坂

化粧坂への道
化粧坂を上から

史料上では鎌倉時代の『吾妻鏡建長3年(1251年)12月3日の条で、「鎌倉中小町屋の事定め置かるる処々」の中に「気和飛坂山上」と出てくるのが初見である。ただし『吾妻鏡』には複数の写本があり、北条本には「乗和飛坂」とある。このことから吉田東伍の『大日本地名辞書』では「乗和」をアマノワと読み甘縄の魚町との説も出しているが、あまり賛同は得られていない。

元弘3年(1333年)の鎌倉の戦いで、新田義貞は軍勢を三つに分けて鎌倉攻略を図った。『太平記』巻十にある「鎌倉合戦の事」によれば、化粧坂方面には新田義貞本隊が当たっている[4][注 1]。一方、鎌倉軍は金沢忠時が迎え撃った[4][注 2]

梅松論』には化粧坂の名は出ないが化粧坂山上の北側の「葛原」が戦場として登場する。結局、新田義貞は軍勢が退却した極楽寺坂方面に向かうが、攻略は困難と判断して稲村ヶ崎から鎌倉に攻め入った[4]

以上から「葛原ヶ岡」のすぐ傍の「化粧坂」が当て字で「気和飛坂」となることによって、『吾妻鏡』・建長3年(1251年)12月3日の条にある「気和飛坂」が現在の「化粧坂」となる。

鎌倉の世界遺産登録に向けて行なわれた2000年(平成12年)度、2001年(平成13年)度の調査では、名越坂とともに、化粧坂で荼毘の跡が発見された[5]

「化粧坂」の道筋

「化粧坂」の鎌倉側の道筋について、『鎌倉市史(総説編)』(高柳光寿)では、化粧坂山頂から亀ヶ谷辻を通り、寿福寺前を曲がって現在の鶴岡八幡宮一の鳥居・太鼓橋(当時は赤橋)の前へ至る道を「鎌倉中の武蔵大路」としている。

それらを総合すると、鎌倉の中心から武蔵国の中心(府中)へ向かう道の鎌倉の内と外の境界が「化粧坂」であり、建長3年(1251年)以前から坂上には武蔵国方面の物流の拠点として今でいう市場、商店街が開かれ、賑わっていたと言うことになる。

「化粧坂」の現在

また鎌倉滅亡の2年前、元弘元年(1331年)の元弘の乱で捕らえられた日野俊基がこの坂上で首を切られた。明治時代になって日野俊基を祭る葛原岡神社が建てられ、現在は日野俊基の墓も建てられている。

現在は鎌倉の内側(鎌倉中)への下り坂が、1969年昭和44年)11月29日に国の史跡に指定されているが[6]、道の痕跡はいくつもあり、鎌倉時代にどのルートであったのかは必ずしも明らかではない。

また、その外側の道も不明であり、1882年明治15年)の帝国陸軍のフランス式1/20000地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿いの道、また北鎌倉方面への数本の道、また北条常盤亭方面への尾根道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっている。

脚注

注釈

  1. ^ 『太平記』では新田義貞本隊の軍勢の数を50万騎と記しているが、鎌倉後期の東国の農業生産力から考えて事実とは思われない数字とされている[4]
  2. ^ 『太平記』では金沢忠時の軍勢を3万余騎と記している[4]

出典

  1. ^ 国土地理院の地図、国史跡の指定名称の表記。
  2. ^ a b 新編鎌倉志 1915, p. 95.
  3. ^ 五味文彦『中世都市鎌倉の実像と境界』2004 p.178
  4. ^ a b c d e 石井 由紀夫「『太平記』巻十の構造について」『語学文学』第53巻、北海道教育大学語学文学会、2014年、1-10頁。 
  5. ^ 「中世鎌倉の発掘(1)仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって」『有鄰』第430号 2003年(平成15年)9月10日
  6. ^ 文化遺産オンライン「仮粧坂」 - 文化庁

参考文献

  • 鎌倉市史編纂委員会 1959『鎌倉市史(総説編)』鎌倉市
  • 石井進 1987『鎌倉武士の実像:合戦と暮しのおきて』平凡社(平凡社ライブラリー)ISBN 4582841082(再版 2002 平凡社 ISBN 4582764495
  • 五味文彦 馬淵和雄編 2004『中世都市鎌倉の実像と境界』高志書院 ISBN 4906641865
  • 河井恒久 等編 編「巻之四 假粧坂」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、95頁。NDLJP:952770/62 

関連項目

外部リンク

座標: 北緯35度19分33.4秒 東経139度32分41.4秒 / 北緯35.325944度 東経139.544833度 / 35.325944; 139.544833


化粧坂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:11 UTC 版)

鎌倉の戦い」の記事における「化粧坂」の解説

新田義貞脇屋義助主力率い化粧(けわい)坂の攻防戦幕府金沢貞将守り固く、義貞軍はこの方面で難渋した20日攻撃時も化粧坂は破られることがなかったため、義貞はこの方面での戦い脇屋義助任せ自身は翌21日侍大将大舘宗氏戦死した極楽寺へと転戦した

※この「化粧坂」の解説は、「鎌倉の戦い」の解説の一部です。
「化粧坂」を含む「鎌倉の戦い」の記事については、「鎌倉の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「化粧坂」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



化粧坂と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「化粧坂」の関連用語

化粧坂のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



化粧坂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの化粧坂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの鎌倉の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS