鎌倉への進撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)
同日、新田義貞の主力軍7万は多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関(東京都多摩市関戸)にて北条泰家率いる幕府軍5万と激突したが幕府軍は大敗、北条泰家は鎌倉に逃げ帰った(関戸の戦い)。こうして、勢いに乗った義貞は数十万の大軍勢で一気に鎌倉まで攻め上がった。 敗戦に次ぐ敗戦で幕府軍は鎌倉の防備を固め、鎌倉街道を進軍してくる20万の新田義貞軍に対し、金沢貞将を化粧坂に、大仏貞直を極楽寺坂切通しに、北条守時を洲崎(小袋坂、巨福呂坂切通し)にそれぞれを配置した。さらにどの方面にも援軍がすぐ駆けつけられるよう、鎌倉中に兵を配置していた。 17日に関戸に一日逗留して体勢を立て直した義貞は、部隊を三隊に分割した。義貞の本隊が化粧坂(けわいざか)切通し、大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂切通し方面から、堀口貞満、大島守之の部隊が巨福呂坂切通しから鎌倉を総攻撃する手はずをと整えた。 18日明朝、義貞は村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂などの50余ヶ所に放火し、三方から攻め入った。しかし、天険に守られた鎌倉の守備は盤石で、部隊を三つに分けての攻撃は、いずれも失敗し、一つの部隊も突破することができなかった。極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏は波打ち際を突破して鎌倉への進路を打開しようとし、成功はしたものの、大仏貞直の迎撃によって討死した。とはいえ、同日晩までに洲崎方面の戦闘において、新田勢の糸口貞満と交戦していた北条守時は既に自害していた。 一方、宗氏の戦死によって極楽寺坂方面での指揮系統が失われたため、20日に義貞は化粧坂攻撃の指揮を弟・脇屋義助に委任し、本陣を極楽寺坂西北の聖服寺の谷に移し、指揮を取った。
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