鎌倉への律宗の進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
やぐらが最盛期を迎えるのは鎌倉時代末と考えられている。これは鎌倉への律宗の進出時期とほぼ一致する。「葬送実務と律宗」にみたように、鎌倉時代に葬送に関与した宗派は律宗である。律宗僧の鎌倉での活動は南都律(西大寺系)の忍性に始まるものではないが、確実に職人集団を率いていたとされる忍性が六浦の浄願寺に入るのが正嘉年中(1257~1259年)、その後1261年(弘長元年)、鎌倉亀ヶ谷の新清涼寺釈迦堂に入り、多宝寺を経て極楽寺の住持となるのは1267年(文永4年)である。紀年銘の最も古い朝比奈峠下やぐら内の板碑の文永年間(1270年前後)に付合する。六浦の浄願寺というのは開発か保存かで争われた「上行寺東やぐら群遺跡」にあったとされる律宗寺院である。もう一つ律宗グループの北京律(泉涌寺系)が鎌倉の拠点として覚園寺を建てるのが1296年である。この覚園寺の裏山に巨大な百八やぐら群(画像2)や中規模な平子やぐら群(画像33)がある。 「分布」の節で述べたように、やぐらは「寺院、または寺院跡に伴うもの」が大半、かつその中でも律宗系が650窟で71%を占め、やぐら全体に対しても半数を超える。鎌倉以外で鎌倉のやぐらと共通性を持つものが東京湾を挟んだ千葉県にもあるが特定の土地にまとまっていて、当時は称名寺領や覚園寺領、つまり律宗寺院の寺領であった。
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