葬送実務と律宗
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平安時代の葬送では、沐浴、入棺、火葬、骨拾いなどはその家の者で行うのが通例であった。これらは「穢れ」「喪」に関わることで僧を含めて他人は行わない。それが鎌倉時代に入ると「一向上人沙汰」つまり僧に今の葬儀社・火葬場の役割を一任することが増える。この役割を担うのは伝統的寺院、例えば比叡山延暦寺、高野山、三井寺、仁和寺などの高位の僧ではない。律宗や念仏衆などである。今日のようにどの宗派も葬祭を行い寺に墓を持つということは無かった。京では各宗派が葬祭に乗り出すのは15世紀頃であり。葬儀が盛大になるのもほぼその時期である。 「葬式仏教」も参照 北京律の泉涌寺は1242年(仁治元年)に四条天皇の火葬を行い、南都律(西大寺系)の東山太子堂はやはり天皇や貴族の火葬を行っている。非人救済で有名な西大寺系の京における拠点浄住寺には長老統括の僧衆と、奉行統括の斉戒衆の二元的構成になっていた。この「斉戒衆」が火葬などの葬送作業を行ったと云われている。当時の宗派は現在の様に縦割りではなく、特に律宗は「戒律を重んじる」ことを特色としながら泉涌寺派の四宗兼学に現れるように他派の僧・寺院とも交流がある。例えば法隆寺は法相宗であるが、その子院の北室には律僧がいてその下に斉戒衆がいる。醍醐寺、仁和寺、大覚寺などの真言宗門跡寺院の門主などの葬儀を行うのも律宗系寺院であったし、先の浄住寺の子院である光明院は東寺学衆の墓所となっている。つまり律宗は現在の葬儀会社のような役割を担っていた。 時衆も少なくとも南北朝時代の京では火葬場を運営していた。真言宗の東寺観智院主・賢宝の1398年(応永5年)の葬儀は律宗寺院の長老が執行したが火葬場は時衆寺院が運営するものであったという例がある。しかし時衆は『一遍聖絵』にあるように少なくとも鎌倉時代には鎌倉に入れず、鎌倉の上層階級の帰依を受けた例は史料上ない。時衆と律宗の共通点は非人などの下層民との関係である。その共通点は浄土宗にもあるが、浄土宗でも下層民に広まるのは専修念仏である。専修念仏には作善、つまり造仏・造塔・写経などの善事を行うという観念は無い。もっぱら念仏である。浄土宗で作善があるのは持戒念仏だがこれは律宗に近い。浄土宗も日蓮宗も少なくとも、やぐら全盛期には上層階級の葬儀への関与を示す史料はない。禅宗も足利尊氏の葬儀以降、南北朝から室町時代には葬儀に深く関わり近年までの伝統的葬儀の原型を作ったが、やぐら全盛の頃は不明である。これらの状況は「分布」で触れた寺院関連で律宗系が71%を占めるということにも符合する。
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