念仏
仏教用語 念仏 | |
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中国語 |
念佛 (拼音: Nianfo) |
日本語 | 念仏 |
朝鮮語 | 염불 |
ベトナム語 | niệm Phật |
念仏(ねんぶつ)とは、仏教における行のひとつで、仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号を口に出して呼ぶこと。サンスクリット語では"Buddhānusmṛti(英語: Buddhānusmṛti)"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意である。元来は仏(ブッダ)を思い描く等しながらの瞑想修行を指していたが、日本では、浄土宗・浄土真宗が広く普及した結果、一般的には、浄土教系の宗派において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と声に出して称える「称名念仏」を指すことが多い。
また本来の「仏」の「名号」を口にして呼ぶ意味から、各宗派による解釈の相違・用語の違いはあるもの、例として「南無釈迦牟尼世尊」「南無大聖不動明王」「南無観世音菩薩」も念仏である。
概要
「念」という漢字には、「憶念」、「仏隨念」、「心念」(観心)、「観念」(「観想」)、「称念」などの抽象的な名詞の意味のほか、口に出してとなえるという動詞としての意味がある。この意味では口編を付けた「唸」(うなる)は1異体字である。「「念仏」の場合「仏」が目的語であり仏の名を唱えることと理解される。
「仏」とは、この場合「仏身」、「仏名」の意味がある。「仏」を「仏身」とみる場合、具体的な仏の相好(そうごう)とか仏像とかとみる時と、仏の本質的な実相の理をあらわす法身(ほっしん)とみる時とでは、「念」の意味もおのずから変わってくる。法身を念ずる場合は、それは「理を観ずる」のだから、念は憶念、思念、心念などの意味である。具体的な仏や仏の相好にむかえば、それは生身や像身の色相(すがたかたち)を観ずることであるから、念は観念の意味が強い。仏を仏名とみれば、名は称え呼ぶものであるから、念は称念の意味とみるべきである。
念仏については、さらに正しく物を見るために、五停心観(ごじょうしんかん)という、心を停止する観法があり、その中にも「念仏観」がある。この場合の念仏観は、睡眠とか逼迫の障りを対論して心を静止せしめるための方法をいう。
このように、念仏には、様々な受け取り方がある。
歴史
初期仏教
憶念
初期の仏教では、仏を「憶念[注 1]」することを「念仏」と言う。
古い経典で、仏弟子たちが「南無仏」と唱えたといわれるのは、現存の仏陀釈尊に対する追憶の念仏であり、また祈りの念仏である。
仏隨念
『阿含経』では、三念[注 2]・六随念(ろくずいねん)[注 3]・十隨念[注 4]の第一である「仏隨念」のことを「念仏」という。この場合の「念仏」は、仏に対して想を留め、他の想をやめて心を乱さないことをいう。
上座部仏教
「仏随念」の修法は、現在の上座部仏教にも受け継がれている。
大乗仏教
大乗仏教初期
インドでは、やがて大乗仏教が成立し、その初期には多仏思想が成立する。その思想にともない、念ずる対象となる仏が多様化していき、諸仏の徳を讃嘆し供養することが大切な行とされた。
念仏三昧
『般舟三昧経』では、禅定(三昧)に入って、仏を目の当たりに見る(見仏[注 5])ことを目的として精神集中する「般舟三昧」(念仏三昧)が説かれている。
観想念仏
『観仏三昧海経』では、仏を(心に)観察(かんさつ、かんざつ)[注 6]し、観念[注 7]する「観仏三昧」(観想念仏)が説かれている。
原始浄土教
『無量寿経』などの浄土経典では、阿弥陀仏を念仏することにより、その仏国土である極楽浄土に往生できると説かれている。この場合、浄土教が展開していく過程で「念仏」の意味は、憶念(仏随念)、思念(作為)、念仏三昧、観想念仏、称名念仏と解釈が分かれるようになる。
中国大陸
中国大陸では2世紀後半に、浄土経典が伝えられる。初期の中国浄土教では、念仏三昧・観想念仏が主流であった。後に念仏と禅が融合した「念仏禅」が主流となる(この「念仏禅」は念仏と禅が完全に融合したものではなく、「僧侶や知識人は禅であるが、禅は難しいので、禅がわかる能力のなさそうな庶民には念仏をすすめる」というものであった[注 8])。
法然は、『選択本願念仏集』において「廬山慧遠法師慈愍三蔵道綽善導等是也」と述べ、中国浄土教を「廬山慧遠流」、「慈愍三蔵流」、「道綽・善導流」に分ける。
廬山慧遠流
慈愍三蔵流
- 慧日(慈愍三蔵慧日〈じみんさんぞうえにち〉、680-748)
- 慈愍流浄土教の開祖である慧日は、善導の浄土教を基盤に、浄土と禅を並行して修法することを主張する。念仏禅の基盤となる。
道綽・善導流
法然は、『選択本願念仏集』において浄土教の師資相承血脈を道綽の『安楽集』から菩提流支・慧寵・道場・曇鸞・大海・法上の6人を、『唐高僧伝』・『宋高僧伝』から菩提流支・曇鸞・道綽・善導・懐感・小康の6人の計10人を挙げている。
- 曇鸞
- 当初は仙教を学ぶが、菩提流支より『仏説観無量寿経』[注 9]を授かり、浄土教に帰依する。
- 『無量寿経』を世親(天親)が注釈し、菩提流支により訳された『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』、『往生論』)を、曇鸞が再註釈し『無量寿経優婆提舎願生偈註』を撰述する[5]。
- 道綽
- 当初は慧瓚(えさん)に師事し、戒律と禅定の実践に励む。
- 609年に、石壁玄中寺で曇鸞の碑文を読み浄土教に帰依する。
- 『観無量寿経』を解釈した、『安楽集』を撰述する。
- 曇鸞の教えを継承し、仏教を「聖道門」と「浄土門」に分け、浄土念仏を勧める。その際、小豆で念仏の数を数える「小豆念仏」を提唱する。
- 善導
- 道綽に『観無量寿経』を授かり、師事する。
- 主著『観無量寿経疏』(『観経疏』)は、『観無量寿経』は観想念仏を勧めているのではなく、称名念仏を勧めている教典と解釈した。
- この称名念仏重視の流れは、法照らに継承されるも、中国では発展しなかった。日本の法然により『観経疏』は再発見・評価され、日本の浄土教に多大な影響を与える。
日本
奈良仏教・平安仏教
奈良仏教(法相宗)・平安仏教(天台宗)では、観想念仏が主流であった。
- 最澄
- 日本天台宗の開祖・最澄(伝教大師)は、止観によって阿弥陀仏と自己の一体を観想する念仏修法を導入した。
- 日本天台宗では比叡山の常行堂(常行三昧堂・般舟三昧堂)における常行三昧がある。
- 源信
- 源信の撰述した『往生要集』では、「観想」と「称名」の2つの念仏を立てるが「観想念仏」を重視し、来迎の儀式を強調したため[6][7]、平安貴族に流行する。その影響で、平安時代は極楽浄土や阿弥陀三尊を表現する建築様式(宇治の平等院や平泉の中尊寺など)や美術様式が発展した。
- 「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与えた。
称名念仏
詳細は「称名念仏」の項目を参照。
「称名念仏」は、良忍・法然・親鸞らにより布教される。宗旨・宗派により解釈が異なる。
- 貞慶
- 貞慶は、釈迦の観想念仏に励行する一方で、法然の専修念仏を批判した。
- 踊念仏
- 踊念仏(おどりねんぶつ)とは、太鼓・鉦(かね)などを打ち鳴らし、踊りながら念仏・和讃を唱えること。現在は、婦人を中心とした檀信徒による「跡部の踊り念仏」と、僧侶が儀式として修行する「踊躍念仏」に分化している。
その起源は平安時代中期の僧空也にあるといわれる。空也が創建した六波羅蜜寺には踊躍念仏が伝わり、国の重要無形文化財に指定されている[8]。鎌倉時代、時宗の一遍が伯父の河野通末の配流先であった信濃国伴野荘(長野県佐久市)を訪れた時、空也に倣って踊念仏を行った。
同じ時期に九州の浄土宗の僧・一向俊聖も一遍とは別に踊念仏を行った。それ以来、時宗・一向宗(一向俊聖の系統のことで浄土真宗とは別宗派、後に時宗一向派とされたが、昭和になって浄土宗に帰属)の僧が遊行に用いるようになり全国に広まった。天道念佛(もとは天童念佛と書いた)とも言われる。雨乞い念仏の一種と見られている。現在も実演を行っているのは、毎年11月17日に勤められる山形県天童市の佛向寺での開山忌踊躍念仏と、素朴な農民信仰として、千葉県船橋市海神の天道念仏がある。
時宗の踊念仏は、現在も実演を行なっているのは、前述の佐久市跡部の西方寺のもののみで、重要無形民俗文化財に指定されている。同じ佐久市岩下の踊り念仏(3月の彼岸に実演)も跡部系とされ、市指定無形民俗文化財である[9]。
浄土真宗東本願寺の報恩講では、座ったまま体を前後左右に揺らしながら唱和する「式間の念仏」という念仏がある。公式の勤行ではないが蓮如の時代に定着したと言われ、別名を坂東曲(ばんどうぶし)という。坂東曲は遡ると近畿地方の六斎念仏の演目のひとつである坂東に由来すると言われる[10]。
念仏呪術論争
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昭和30年代に家永三郎、星野元豊らによって念仏呪術論争がおこった[11][12]。
脚注
注釈
- ^ (略)東アジアの浄土教において憶念の語は、殊に、阿弥陀仏や阿弥陀仏の功徳、あるいはその本願を、思って忘れぬこと、しばしばそれを思い起こすことの意に用いられる事が多い[1]。
- ^ 仏、法、僧(三宝)を心に思いとどめること、念仏、念法、念僧のこと[2][3]。
- ^ 念仏、念法、念僧、念戒、念施(念捨)、念天[2][3]。
- ^ 六隨念に念休息(念滅)、念安般(念出入息)、念身非常(念身)、念死を加える[2][3]。
- ^ 一切の諸仏が目の前に現われること
- ^ 仏の持つ諸得性を澄みきった理知のはたらきによって観察すること。
- ^ 仏やその仏国土(浄土)のすぐれた様相を心に想い描き念ずる事をいう。
- ^ これを隠元は「病に応じて薬を与える」と表現している[4]。
- ^ 「王舎城の悲劇」を導入部に観想念仏と称名念佛が説かれている。この経典は、サンスクリット原典が発見されておらず、中国もしくは中央アジア編纂説がある。
出典
- ^ 中村元 2002, p. 114.
- ^ a b c 中村元 2002, p. 1070.
- ^ a b c 多屋頼俊 1995, p. 359.
- ^ 森三樹三郎 2003, pp. 159–160.
- ^ 中村元 2002, p. 108.
- ^ “きょうのことば”. 大谷大学 (2000年8月). 2004年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月18日閲覧。
- ^ 中村元 2002, pp. 107–108.
- ^ 「青鉛筆」『朝日新聞』1978年2月4日、朝刊、第13版、19面。
- ^ “岩下の踊り念仏(信州の文化財)”. 八十二文化財団. 2021年6月18日閲覧。
- ^ 岸田緑渓 2013, pp. 121–123.
- ^ 峰島旭雄 1961.
- ^ 坂本要 1992.
参考文献
- 多屋頼俊 著、横超慧日・舟橋一哉 編 編『仏教学辞典』(新版)法藏館、1995年4月1日。ISBN 978-4831870094。
- 中村元、福永光司・田村芳朗・末木文美士・今野 達 編『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月30日。ISBN 978-4000802055。
- 瓜生津隆真 著、細川行信 編 編『真宗小事典』(新装版)法藏館、2000年3月1日。ISBN 978-4831870674。
- 勧学寮 編『浄土三部経と七祖の教え』本願寺出版社、2008年7月16日。ISBN 978-4894167926。
- 森三樹三郎『老荘と仏教』講談社〈講談社学術文庫〉、2003年9月11日。ISBN 978-4061596139。
- 岸田緑渓『親鸞と葬送民俗』湘南社、2013年9月1日。ISBN 978-4434182921。
- 峰島旭雄「念仏と呪術-念仏=呪術論争をめぐって-」『The Waseda commercial review(早稲田商学)』第155号、早稲田商学同攻会、1961年11月、45-80頁、ISSN 0387-3404。
- 坂本要「「念仏=呪術論争」再考」『俗信と仏教 / 仏教民俗学大系』第8号、名著出版、1992年11月30日、401-420頁、ISBN 978-4626014573。
関連項目
- 阿弥陀三尊
- 融通念仏
- 称名念仏
- 七高僧
- 念仏宗
- 一遍上人 - 踊念仏の誕生を描いた日本映画。
- 題目の唱題 – 法華経系・日蓮系などの宗教において「南無妙法蓮華経」と唱えること。
- 真言(心呪、大咒・中咒・小咒)
- 陀羅尼
外部リンク
称名念仏
称名念仏(しょうみょうねんぶつ)とは、仏の名号、特に浄土教においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)をいう。「称名」とは、仏・菩薩の名を称えること。また諸仏が阿弥陀仏を称讃することもさす。宗旨により、「称名念仏」を行[1]として捉える場合と、非行として捉える場合がある。
概要
歴史
初期の仏教では、六隨念や十隨念の第一である「仏隨念」を「念仏」と呼ぶ。
原始経典の「南無仏」のように口称念仏として仏の名を呼ぶことによって、仏を具体的に感得しようとする信者たちの願いが生じる。常に信者たちの実践と結びついていたのは「阿弥陀仏への念仏」であった。
『般舟三昧経』では、諸仏現前三昧の代表として阿弥陀仏の念仏が説かれ、これが天台宗の常行三昧のよりどころとなる。
中国では、念仏の流れとして慧遠の白蓮社の観想念仏、道綽の弟子善導による称名念仏、慧日による慈愍流の禅観的念仏の三流が盛んになる。このように阿弥陀仏の念仏については、おおむね3つの形態がある。
日本においては、「称名念仏」が平安時代末期には主流を占め、名号を称える道を歩めば、末法の濁世でも世尊の教えを理解できると説かれ、浄土教の根幹をなす。また名号の中でも「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏が中心となる。そのような動き中で鎌倉時代中期には一遍などにより、より具体的に歓喜のこころを身振りや動作の上に表そうと「踊り念仏」が派生する。
この「称名念仏」を純粋な形で人間生存の根底にすえ生きる力を求めたのは、良忍の融通念仏であり、さらに法然や親鸞の教えであった。
『佛説無量寿経』
『佛説無量寿経』には、阿弥陀仏に現世で救われて「南無阿弥陀仏」と念仏を称える(称名)身になれば、阿弥陀仏の浄土(極楽浄土)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれている。
その故は、法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時の名)が、48の誓願「四十八願」を建立する。その「第十八願」(=本願)に
「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法[2]」
意訳[3] 「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます[2]。」
と誓う。そしてすべての願が成就し、阿弥陀仏に成ったと説かれていることによる。
人物
- 善導
- 中国唐代初期に活動した善導は、「憶念」[4]と「称名」(称える)とは同一であると主張して、称名念仏を勧めた。
- 観想念仏のように阿弥陀仏や浄土を心の中でイメージ化する瞑想は特に必要でない。したがって、特別な修行(例:日本天台宗の常行三昧)や浄土を観想するための建築空間(寺院・堂)や宗教美術(仏像・仏画)は不要となり、時間と空間を問わず誰でも称名念仏できるため、幅広い層の民衆に対する浄土教の普及に貢献した。
- 日本浄土教
- 円仁
- 日本においては、平安時代初期に活動した天台宗の僧・慈覚大師円仁は、入唐の際に五台山竹林寺を訪れて法照の流れを汲む念仏を日本に持ち帰った。これは五会念仏とも五台山念仏ともいわれ、独特の声明による称名念仏が特徴である。これが日本の称名念仏の源泉となった。
- 空也
- 観想を伴わず、ひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える称名念仏を日本において記録上初めて実践したのは、10世紀平安中期に活動した空也であるとされる[5]。摂関家から一般大衆に至るまで幅広い層・ことに出家僧に向けてではなく世俗の者に念仏信仰を弘めたことも特徴である。後世では一遍に多大な影響を与えた。空也は人生半ばにして比叡山で天台座主・延昌から戒を受けているが、生涯超宗派的立場を保ち、ことにその思想基盤にはむしろ三論宗があるという説が唱えられている[6]。
- 源信
- 空也から一世代遅れて10世紀末から11世紀初頭の平安後期に活動した天台宗の僧・恵心僧都源信は、日本の浄土教の祖と称され、法然や親鸞に大きな影響を与えた[7]。
- 良忍
- 称名念仏の流れは、平安時代末期に、融通念仏の祖の良忍に受け継がれ、その後の融通念仏宗では「南無阿弥陀仏」と称え、「大念仏」という。
- 法然
- 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」の教えを説いた。後に法然は、浄土宗の開祖と定められる。法然の説く念仏は、阿弥陀仏の本願(第十八願『念仏往生の願』)を信じて「南無阿弥陀仏」と仏の御名を称えれば、善人、悪人、老若男女、貧富の別なく、すべての衆生を救うと誓われた阿弥陀仏によって、臨終には阿弥陀仏をはじめ観音菩薩、勢至菩薩や極楽の聖衆が来迎(らいこう)し、極楽浄土へ迎え入れ、彼の地に往生することが出来ると説いた。
- また、この阿弥陀仏の選択本願の念仏は、臨終間際の悪人が善知識の勧めによってただの一遍称えただけでも救われると説く一方で、念仏の教えを信じる人は平生(普段から)より一生涯念仏を称え続けることが、阿弥陀仏の本願に順ずる事であると説き、法然は自らも日に六万遍、七万遍の念仏を称えたと伝えられている。
- また、門弟の中に、一念義等の邪義を説くものが出たおりには浅ましき僻事(いつわり)であると、その間違いを世に示した。自らが著した『選択本願念仏集』で阿弥陀仏の選択本願念仏を詳しく説き示し、親鸞などの限られた弟子達にそれを授け、正しい念仏の教えを説いた。
- 一方、日本中世の体制仏教を顕密体制ととらえる歴史学の立場から、法然の専修念仏思想は、称名念仏を末代の唯一の往生行ととらえ、衆生の平等性を主張し、称名念仏しかできない民衆に威厳を与えるものであったする見解もある。
- 親鸞
- 『選択本願念仏集』において明らかにされた本願念仏の教えは、法然の弟子である親鸞にも受け継がれる。後に親鸞は、浄土真宗の宗祖と定められる。
- 親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない[8]。
- 法然の専修念仏思想を発展させ、称名念仏を末代の唯一の仏法と主張し、当時の顕密仏教における階層的宗教秩序に批判的であったとする意見もある。
- 一遍
- 法然の弟子である証空の法系(西山義)を学び、融通念仏にも関係し、後に時宗を開いた一遍は、「阿弥陀仏の本願力は阿弥陀仏への信・不信を問わず一切の衆生を救済する」という考えから、“南無阿弥陀仏”の名号に「自らの往生を喜び他の人にも往生が定まっていることを知らせる」という役割を見出した。また一遍とその弟子は賦算と踊念仏を行いながら諸国を遊行した。
- 真盛
- 室町時代に天台宗から生じた天台真盛宗は、円戒と称名念仏を主にしている。
脚注
- ^ 行…「行」には様々な原義・定義があるが、ここでは仏に成るための行為を指す。
- ^ a b 唯除五逆誹謗正法…親鸞は、『尊号真像銘文』において「唯除五逆誹謗正法」の真意を、「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。としている。
- ^ 意訳…『<浄土真宗聖典>浄土三部経 -現代語版-』29頁より引用。
- ^ 憶念…(略)東アジアの浄土教において憶念の語は、殊に、阿弥陀仏や阿弥陀仏の功徳、あるいはその本願を、思って忘れぬこと、しばしばそれを思い起こすことの意に用いられる事が多い。(『岩波仏教辞典』第二版P.114より引用)
- ^ 石井義長『空也上人の研究―その行業と思想中世の寺院体制と社会』法藏館、2002年、547-555頁。ISBN 4-8318-6054-9。
- ^ 石井義長『空也上人の研究―その行業と思想中世の寺院体制と社会』法藏館、2002年、610-621頁。ISBN 4-8318-6054-9。
- ^ “史上初、天台座主が知恩院と西本願寺で法要 2月、京都”. 京都新聞. (2017年1月12日) 2017年1月12日閲覧。
- ^ 念仏を、〜捉えない。…唯円の作とされる『歎異抄』八では、「一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからい(計らい)にて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々」と述べている。
参考文献
- 浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂『浄土三部経-現代語版』本願寺出版社〈浄土真宗聖典〉、1996年。ISBN 4-89416-601-1。
- 中村 元ほか編『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年。ISBN 4-00-080205-4。
関連項目
外部リンク
- お念仏から始まる幸せ 浄土宗
専修念仏と同じ種類の言葉
- 専修念仏のページへのリンク